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殿様は江戸で何をしていたのか?~幕府の監視下に置かれた窮屈な日々

3/14(木) 12:12配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

「江戸は町民が主役!」と言うけれど、実は江戸の面積の7割は武家地で、さらにその大半を、参勤交代で全国から集まる殿様と家臣の大名屋敷が占めていた。そんな大名屋敷と殿様の生活に迫ります。

※本稿は、安藤優一郎『大名屋敷「謎」の生活』(PHP文庫)より、一部を抜粋編集したものです。

「殿様は江戸で何をしていたか?」 江戸城への登城が「最大の公務」だった

江戸藩邸で隔年ごとの生活を強いられた諸大名は江戸在府中、何をしていたのか。

老中などの幕府の役職に就かなかった大名の場合、江戸城に登城して将軍に拝謁したり、江戸城内で執り行われる様々な儀式に参列することが、幕府に対する最大の公務(義務)となっていた。

しかし、一口に江戸城への登城と言っても、当の大名や藩士たちにとり、実に大変なことだった。江戸参勤ほどの規模ではないものの、大名行列を組んで江戸城に向かうが、これが物凄い混雑を引き起こす。それが回り回って、自らの登城に時間が掛かる結果を招いたのである。

登城日は、あらかじめ幕府から決められていた。

もちろん、公務であるから勝手に休むことなどできない。病気などで登城できない場合は、その旨をあらかじめ届け出る必要があった。届け出もなく登城しなかったとなると、ただでは済まず処罰対象となる。

決められた日以外に登城することも、「不時登城」として堅く禁じられていた。

安政5年(1858)6月24日、水戸前藩主・徳川斉昭、水戸藩主・徳川慶篤、尾張藩主・徳川慶恕(慶勝)、福井藩主・松平慶永(春嶽)の4大名が不時登城を強行する。5日前の19日に、大老・井伊直弼が時の孝明天皇の許可(勅許)なしに日米修好通商条約を締結したからだ。斉昭たちは直弼を面詰するが、暖簾に腕押しの問答となる。何の成果もなく、4人は下城せざるを得なかった。

7月5日、直弼は将軍・家定の意思と称して斉昭を謹慎、慶恕と慶永に隠居謹慎を命じた。不時登城が処罰の理由である。斉昭たちの行動を逆手にとり、将軍継嗣問題で「政敵」だった一橋派大名の追い落としに成功したことは、幕末史ではよく取り上げられる出来事である。

以下、登城日を具体的に見てみよう。

毎月1日、15日、28日が定例の登城日(「月次(つきなみ)御礼」と称される)とされていた。江戸城に登城して将軍に拝謁した後は、そのまま屋敷に戻ることになる。

年始や五節句(3月3日の桃の節句や、5月5日の端午の節句など)、そして徳川家康が江戸城に入った日とされる八朔(8月1日)など城中で執り行われる儀礼の日も、江戸在府中の大名は登城が義務付けられた。

若君誕生のような慶事の時にも、お祝いを申し述べるため登城する。年間で見ると、登城日は20~30回ということになるだろう。

こうした登城日に、江戸在府中の殿様たちは江戸城の周りで拝領した屋敷を出て、一斉に江戸城へと向かうのである。

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