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【星野一義】1980年代「1984年富士GCシリーズ全戦をポールtoウインで完全制覇」 【日本一速い男の半生記 05】

3/16(土) 18:00配信

Webモーターマガジン

F2以上の人気を集めたGCでタイトルを獲得

「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡。その第5回をお届けする。
(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫)

「日本には星野がいる」が外国人ドライバーの合い言葉だった

1970年に日産、トヨタといったワークスチームがレース活動を縮小したのと入れ代わるように、71年からプライベートチームを中心としたスポーツカーレースとしてスタートした富士GC(グランチャンピオン)。

当初は大排気量の2シーター・レーシングスポーツを中心に、フェアレディZといった市販GTカーまで、多彩なマシンが参加できるレースだった。

しかし、72年からは2リッタークラスのレーシングスポーツが主流となり、マーチ、シェブロンといったイギリスのレーシングコンストラクターによるシャシーに、F2でも使われているBMWエンジンなどを搭載したマシンで争われるようになる。

これにシグマ、ノバといった国産シャシーや、マツダのロータリーエンジンなども加わって、国内最高峰のレースであるF2000やF2以上の人気を集めるレースとなっていく。

そして70年代末からは、シングルシーターのF2用シャシーをベースに、ムーンクラフト(MCS))などが製作したフルカウルボディを組み合わせた、富士GC独自のマシンへと移行していた。

その中で星野は、接戦を制しての久々のビッグタイトルを手にする。82年の富士GCチャンピオン獲得で、70年代末から80年代初頭にかけての長い苦闘から抜け出したのだ。

さらに、76年から長年在籍したヒーローズレーシングから独立して、自らのチームであるホシノ・レーシングを立ち上げた翌83年、3月の富士GCの開幕戦では、2位の松本恵二を1分近く引き離してのポールtoウインを決める。

星野らしい強さを見せたレース展開での勝利で、幸先の良いスタートを切ったはずだった。しかし続く第2戦、第3戦と、2戦連続してリタイアを喫してノーポイント。最終戦では再びポールtoウインを決めるものの、1勝して2位1回、リタイア1回、最終戦では5位となり、ポイントを着実に稼いだ松本恵二に、僅差でチャンピオンの座を攫われてしまう。

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最終更新:3/16(土) 18:00
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