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環境が「人権」をもち、破壊を逃れるために人間を訴える時代がやってきた

3/18(月) 19:55配信

ニューズウィーク日本版

世界では、自然や川に法的な人格と環境保護のための訴訟を起こす権利を認める動きが広がっている

今世紀の初め、大自然に対し法的な権利を認めるという考えは環境法の専門家からも世論からもまともに相手にされなかった。

ところが今では、ニュージーランドのワンガヌイ川には法的な人格が認められているし、インドのガンジス川にも先ごろ、「人権」が認められた。エクアドルは憲法で、自然には「完全に尊重される権利」があると定めている。

いったいこれらは何を意味しているのだろうか。

自然に対し「権利」を与えるという理論はもともと、1970年代にアメリカの法学者クリストファー・ストーンが、環境保護戦略として提唱したものだ。

環境保護を巡る訴訟の多くが、原告に訴訟の当事者となる法的な権利がないとの理由で失敗に終わっている。環境保護団体は土地の所有者でも何でもないから、訴訟を起こす権利があることを証明するのは容易なことではない。

言い換えれば、個人や団体が自然の代理人として裁判を起こし、「自然にとっての利益」を守るのは難しいことなのだ。

そこで便宜的に、ストーンは環境そのものに権利を与えてはどうかと考えた。「権利を保持する者」になれば、環境は自身のために裁判を起こす資格が認められるだろうというわけだ。この場合の自然の持つ権利とは、特定の何かに対する権利ではなく、法的に何かを主張をする機会を与えられるということを意味する。

あらゆる人に原告になる権利を認める
この理論を現実のものとするには数十年の時を要した。だが2006年、ペンシルベニア州トゥマクワ村はアメリカで初めて、村内の自然の法的権利を条例で認めた。以降、アメリカでは数十の自治体が同様の条例を制定している。

自然が権利を獲得する例は各国で相次いでいる。

エクアドルでは2008年制定の憲法の71条で、自然は「その存在および、生活環、構造、機能、進化過程の保全と再生を完全に尊重される権利がある」と定められている。

具体的には、あらゆる個人や自治体や地域社会、国家や国民が、エクアドル当局に対して自然の権利の擁護を求めることができるようになった。憲法72条の条文によれば、それには現状回復の権利も含まれる。

ボリビアでもすぐに同様の法的規定が設けられた。両国のアプローチには、2つの意味で大きな意味があった。1つは、自然に積極的権利つまり特定の何か(復旧や再生、尊重)に対する権利が与えられたという点だ。

また、訴訟を起こす権利は可能な限り広範に、つまりすべての人に認められた。エクアドルでは特定の土地との関係のいかんを問わず、誰でも自然を守るために訴訟を起こすことができるのだ。

この規定に基づいた裁判の最初の成功例が、2011年のビルカバンバ川の裁判だ。道路建設計画が実行に移されれば大量の岩などの掘削物が川に投棄されるとして、流域に不動産を持つアメリカ人夫婦が川になりかわってロハ県を訴えたのだ。

もっともエクアドルでもボリビアでも、こうした法の規定が必ずしも結果を出しているとは言えない。エクアドルであれば石油、ボリビアでは鉱物資源を求め、採掘型の産業が先住民族の住む地域への進出を続けている。

エクアドルでは市民団体が自然の権利行使を推進しようと努めている。理由の1つは、彼らが問題視している環境破壊に直結する企業活動に、エクアドル経済が依存しているからだ。

その点、優等生なのがニュージーランドだろう。同国では2017年3月に、自然に権利を付与する法律が初めて制定された。

人格をもつ権利が認められたのは広い意味の自然ではなく、同国北部を流れるワンガヌイ川だ。これによりワンガヌイ川は、訴訟の当事者となる権利をもつこととなった。

ニュージーランドの法律ではまた、川の代理人になるための要件も定められた。川の権利のために戦ってきた先住民社会の代表からなる委員会と、英女王(ニュージーランドは英連邦に加盟している)の代理人だ。

このアプローチは、自然の権利に関する当初の理論により近い。また、自然を守るために裁判を起こすことができるのは誰かを特定し、積極的権利を与えていない点でエクアドルやボリビアの立場とは大きく異なる。

先住民はいつまで自然の味方か
例えばもしワンガヌイ川が一定の形で流れる権利を持つとしたら、どんな形であれ流れを変えることは権利の侵害に当たるだろう。だがニュージーランドではこうした種類の権利は認められていない。川は単に自らの権利のために訴訟を起こすことだけが認められ、現状回復などの権利の具体的内容は法的な代理人たちが決めることになる。

つまり理論的には、川が将来、長期的な生存のために必要だとして(例えば気候変動への適応のためとか)流れを変える権利を主張することもあり得るわけだ。

エクアドルでもボリビアでもニュージーランドでも、自然の権利をめぐる戦いで先住民社会は重要な役割を果たしている。このことから先住民は今後も自然の擁護者であり続けるのは自明だと考える人も多い。

確かに中国からエルサルバドルまでさまざまな国で、先住民は環境を守る戦いの最前線に立っている。

だが先住民=自然の保護者という図式には問題もある。世界の先住民が本来的にそして同じように自然のことを大事にしているわけではないからだ。

おまけに、ニュージーランドのように法律で特定の先住民コミュニティを自然の代理人として規定しているのでない限り、そのコミュニティが自然のために立ち上がるという保証はない。

エクアドルやボリビアでは、法律の条文に道義的な内容が多く盛り込まれ、先住民コミュニティへの言及が多くなされている。これにより、自然の保護者が誰かを明確にしているわけだ。

だが実際問題として、訴訟を起こす権利は幅広く認められており、エクアドルでこれまでに自然に代わって戦われた2件の訴訟のどちらも、原告は先住民団体ではなかった。

1つは前述のとおりアメリカ人が原告だったし、もう1つは特定の地域における鉱物の小規模だが違法な採掘を差し止めるために当局が起こした訴訟だった。確かに法律の文言には背いていないかも知れないが、その精神には反していると言えるだろう。

また、自然の代理人たる要件を明確に定めていないがために、法律が乱用される可能性もある。理論的には、石油会社がエクアドルの石油資源を守るために、自然の権利を口実に裁判を起こす可能性もある。

長い目で見れば、要件を厳しく定めたニュージーランドのアプローチの方がいい結果を生むかも知れない。川など自然の構成要素1つ1つに人格を与え、特定の保護者を定めることにより、ニュージーランドはいつか、海や山々や森を基本的に「所有物」として扱う今の硬直化した法体系を劇的に変えることができるかも知れない。そして自然に対し、法定で権利を主張する機会を保証するようになるかも知れない。

(翻訳:村井裕美)

Mihnea Tanasescu, Research Fellow, Environmental Political Theory, Vrije Universiteit Brussel

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.

ミフネア・タナセスク(ブリュッセル自由大学政治学部研究員)

最終更新:3/18(月) 19:55
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