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私の“奇跡の一枚” 連載7 東京大空襲で炎上する旧両国国技館

3/19(火) 12:24配信

ベースボール・マガジン社WEB

 私は、相撲の町両国で父の代から写真館を営んでいる(平成24年当時)。息子の私が言うのもおこがましいが、明治23年(1890)、青森は五戸町生まれの父・工藤哲朗は、立志伝中の人物であった。

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

相撲への愛情を貫いた父の必死の一枚

 丁稚奉公している時分から、写真の魅力に目覚めた父は、写真館修業を経て、陸軍航空隊の写真技師になった。

 世界が大不況に襲われていたころ、父は陸軍を辞めて、両国国技館のそばに写真館を構えた。大相撲の町両国。誰もが分かるその国技館の際。

 昭和4年(1929)1月、一国一城の主となった父は、お客の幅をどんどん広げ、協会の仕事も始めるようになった。

 以来、場所はもちろん、ブロマイド、またパーティー写真など、ことあるごとに頼まれるようになり、相撲協会で写真といえば工藤写真館と言われるほどに。

 父の写真への意欲はいつになっても旺盛で、道具にも金を掛け、13年ごろには超高級の小型35ミリカメラ(ライカ)を手に入れ、取組写真はもちろんのこと、東京中を走り回って、あらゆる撮影を行った。カメラの値段は700円。当時は家一軒が1000円で買えた時代だった。

 写真の師匠にも「そんな小さなカメラで商売になるか」と鼻であしらわれたものの、父のこれからはこういうカメラが必要だという信念は揺らぐことはなかった。

 当時の大スター、双葉山関も写真が大好きで、ウチへはそれこそありとあらゆる写真を撮りに来てくださった。横綱双葉山、太刀持ち名寄岩、露払い羽黒山という立浪三羽烏が勢ぞろいした写真をはじめ、今に残る有名な写真は、父が撮ったものが多くを占める。

 父の後を継いで私が撮ったほかの有名力士、親方の写真、そして協会行事も、今となっては貴重だし、時代を象徴する写真も多いが、今回、我が工藤写真館の“奇跡の一枚”としては、昭和20年3月9日の東京大空襲で火の手の上がった旧両国国技館を撮ったものを、挙げさせていただく。 

 当時の三保ケ関親方(元大関増位山大志郎)と逃げながら撮影した国技館炎上の写真。日本人として決していい思い出ではないので,我家の歴史にとどめ置き、新国技館完成のころまで、実は表に出さなかった。

 この横長の写真は実は2枚の写真で、父が航空写真の経験をスナップに生かしたつなぎ技術で(もちろんあのライカで)撮ったものである。

 命からがら、この写真を撮らしめたものは、写真師、記録者としての根性と、大相撲に対する愛情のなせる業(日本の矜持でもある国技館をやられてたまるか!)だろう。

 当時、予科練生だった私は茨城の土浦にいて「これは尋常ではないことが起きたな」と赤く焼ける空をただならぬ思いで見ていた。終戦後、この写真を見せられて、これは我家の宝としようと心に誓ったものである。

 現在、息子が3代目としてがんばっているが、苦しい時代もいい時代も、大相撲に愛情を注ぎ、時代もともに生きてきた創業祖父の精神を見習って、これからも両国の町と、大相撲を熱く見守りながら、我が伝統写真館の歴史を重ねていってほしいと思っている。

語り部=工藤写真館 前店主 工藤 明

月刊『相撲』平成24年8月号掲載

相撲編集部

最終更新:3/19(火) 12:24
ベースボール・マガジン社WEB

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