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サッカー選手として生きるため、 時国司は選手を“辞めた”。才能がないことを受け入れ、決めた覚悟

3/20(水) 12:20配信

footballista

人生を変えた選択

#3 時国司(元U-19台湾代表主将/台湾フットサル代表、現Orbis Investments日本法人代表取締役社長)

ピッチの中でも、そして外でも。一つの選択がサッカー人生を大きく変える。勇気、苦悩、後悔……決断の裏に隠された様々な想い。海の向こう側へと果敢に挑んだ選手たちに今だからこそ語れる、ターニングポイントとなった「あの時」を振り返ってもらう。

第3回は、生涯を通して「学業、ビジネス」と「サッカー、フットサル」の二足の草鞋を履きこなすために、2度にわたり 選手を“引退”しながら母国代表でのプレーとビジネスでの成功という2つの夢を実現した時国司氏に、驚きの決断の数々について語ってもらった。

取材・文 久保佑一郎(footballista編集部)

■1度目の“引退”は小学4年生

 未来の代表選手のサッカーデビューは、チームメイトから言い渡された「退場」で幕を閉じた。初めてボールを蹴った小学1年生の時。ルールも知らぬまま、公園でサッカーをしている小学6年生の集団に「入れてください」と1人割って入った。

 「せっかく入れてもらったんですけど、その時の私はルールもよく知らずひたすらスライディングタックルばかりして、めちゃくちゃ嫌われて帰らされました(笑)」

 1年生3学期の転校が本格的なスタートにつながった。最初に通っていた小学校ではサッカー少年団への入団条件が3年生以上となっていたが、新天地では1年生でもチームに入ることが許されており、さっそく練習に行った。初練習に臨んだ時国の装いは、アニメ『ポパイ』が描かれたTシャツにスニーカー。コーチから「君、スパイクは?すね当ては?」と聞かれ、「何ですか?」と聞き返すほどだったという。そのため当初は端に座って見学することになった。しかし、あまりにつまらなそうにしている新入部員を見かねたコーチは、紅白戦の後半から出場させることに決めた。空いていたFWでの出場だった。結果は、まさかのハットトリック。その日から“フォワードの選手”になった。

 しかし時国のチームは、近隣の団地に住んでいる子どもたちが入るチームで、サッカー経験のないボランティアコーチが趣味の一環で教えていた。活動も週1回2時間のみ。大会に出ればいつも1回戦負けで練習試合でもしばしば0-10で大敗する、絵に描いたような弱小チームだった。負けず嫌いだった時国は、「どうやったら勝てるか」と思考を巡らせるようになった。結論は、自分で点を取ってチームを勝たせること。パスの選択肢に甘んじず、シュートレンジまでドリブルで持っていった。

 弱小チームは徐々に変わっていく。時国が3年生に上がり、背番号10を背負って臨んだ神奈川県川崎市TEPCO杯少年サッカー大会。チームは準々決勝まで勝ち上がり、最終的に順位決定戦で6位入賞を果たした。この大会、なんとチームの全ゴールを時国がマーク。のちに浦和レッズや東京ヴェルディでも活躍した相馬崇人を擁し、全国大会にも進出した南百合丘SCに敗れたものの、強豪相手にも剛直なプレースタイルで得点を奪い、一矢報いた。この大会での活躍が注目され、時国は市選抜チームに選ばれ、地元の消防署ポスターのモデルになったりと、初めてサッカーで公に認められることになる。

 しかし、時国はここで一度、サッカーの世界から姿を消した。

 「小学4年生からは中学受験の塾に行くことを決めていました。そして、サッカーはいったん辞めました。逆説的ですが、この時サッカーを辞めたのは、サッカーで母国台湾の代表に入るという夢のためでした。自分がプロで食っていけるわけはない。そのため、A代表よりもジュニアユース、ユース、五輪といった世代別代表を思い描いていました。そうすると、大学受験のための勉強に時間を取られることは避けたい。中学受験で大学付属校に入り、受験のためではなく英語やITなど自分が将来必要とする内容を中心に勉強しながらサッカーの時間も作るというアプローチがベスト、という考えでした。塾の先生から進学校を勧められても、頑なに大学付属校を志望し、早慶の付属校を受けました」

 そして、時国は第一志望だった慶應義塾湘南藤沢中等部に合格する。

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最終更新:3/20(水) 13:23
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