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子どもたちの持ち物を統一し、机のどの場所に何を置くかまで決める「スタンダード」。どう考えるべきか?

3/21(木) 8:31配信

教員養成セミナー

学校の「スタンダード」を問い直す

■ 学校現場に広がる「スタンダード」
 先日、毎月連載しているある新聞の「論壇」で、全国の学校や自治体を席巻している様々な「スタンダード」について書きました。

 たとえば、「授業スタンダード」。多くの学校で、全ての先生の授業のやり方が統一されています。極端な場合には、授業の「めあて」や「まとめ」を何色のチョークで書き、何色で囲むかまで決められています。

 学習規律のスタンダードもあります。例えば、子どもたちの持ち物がすべて統一され、机のどの場所に何を置くかまで決められたりしています。授業中の手の挙げ方や、発言の仕方などを全員に統一しているケースもあります。

 「スタンダード」が広がっている背景には、子どもたちの多様化が急激に進んだ学校現場の混乱があります。ベテラン教員の大量退職のため、経験不足の若手教員が増えているという現状もあります。それらに対応するために、統一的なマニュアルが必要なのだという理屈も気持ちも、分からなくはありません。

 でも、教育学の多くの研究が明らかにしているのは、過剰なスタンダードは、かえって教師の力、そして子どもたちの成長を、著しく阻害してしまうということです。

 授業方法の行きすぎた統一は、教師の思考の自由を奪い、創意工夫を妨げることになるでしょう。子どもたちも同様です。筆記具の置き方など、何もかも統一された子どもたちが、一体どうやって自分の頭で考える大人に成長することができるでしょうか。私の元には、スタンダードやそれに類するものに苦しむ、全国の多くの先生や子どもたちの声が毎日のように届いています。

 誤解のないよう、まず強調しておきたいと思います。私は、スタンダードを実施している自治体や学校を非難したいわけではありません。日々、私は全国の多くの学校を訪れ、先生方と学校づくりなどに取り組んでいますが、スタンダードを子どもたちに厳格に守らせている先生とお話しすることも少なくありません。そしてその底に“ 善意” があることを、私はよく理解しているつもりです。

 でも、その“ 善意” や“ 努力” を、もっと「よい」方向へ向かわせることができたとしたらどうでしょう? 先生が子どもたちを過度に統率する必要のない、もっと温かく信頼に満ちた方向へと。誰かを批判したいのではなく、システムを変えたい。私はずっと、そう考えているのです。


■ 「スタンダード」を必要とする子どももいる?
 記事には多くの共感の声をいただきましたが、中には次のような反論もありました。

 発達障害の子を含め、「スタンダード」が必要な子もいるのだという反論です。落ち着きのない子を、まずは静かにさせ、座らせ、先生の話が聞けるよう指導する必要がある、あるいは適切なノートの取り方などを指導する必要があるのだと。

 気持ちはとてもよく分かります。でも、これについて私は次のように応答したいと思うのです。

 まず、百歩譲って、「学習規律スタンダード」を必要とする子どもがいるとしましょう。でもその場合も、なぜ、そのスタンダードに“ 全ての子ども” を従わせる必要があるのでしょうか? なぜ、全ての子どもの発言の仕方から、机のどの場所に何を置くかまで決められなければならないのでしょう?

 第二に、より本質的な点として、やはり百歩譲るわけにはいかないのです。「スタンダードを必要とする子どももいるのだ」という主張は、本当に「その子のため」になり得ているのでしょうか。それは無自覚のうちに、「教師の指導のしやすさのため」になってしまってはいないでしょうか。このことを、私は多くの方と考え合いたいと思っています。

 例えば、自閉症スペクトラムの子どもの中には、机の上の統一された文房具の置き方が、どうしても許せなくて勉強どころではなくなってしまうという子もいます。黙って座って先生の話をずっと聞くのではなく、手足を動かし、活発に対話することを通して学び合う方が、学びが深まるという子どもたちもたくさんいます。

 本当に一人ひとりの「子どものため」を考えるのであれば、私たちは、むしろその子たち一人ひとりに合った学びや生活のあり方を共に見つけ、尊重し、支えていくことの方が重要だとは言えないでしょうか。「スタンダード」は、あくまでも一つの「型」として示される分にはいいかもしれませんが、まかり間違えば、やはり多様な子どもたちをひどく苦しめることになるのです。

■ 風呂敷のような学校づくりを
 もう一点、いわゆる“ 荒れたクラス” や“ しんどい学校” には、「スタンダード」が必要なのだ、という反論もありました。とにかくまずは騒がせないこと、教師の指示に従わせること、それが何より重要だというわけです。

 これも、気持ちはとてもよく分かります。でもその上で、私は次のように言いたいと思います。

 実を言うと、“ しんどい学校” でも、いや、“ しんどい学校” だからこそ、統率・統一ではない仕方で、つまり子どもたちの主体性をとことん尊重することで、学校を力強くよみがえらせたり、より幸せな場にしたりした例はたくさんあるのです。

 映画「みんなの学校」で有名な大阪市立大空小学校は、その代表的な学校でしょう。元校長の木村泰子さんは次のように言っています。「最近の学校はとても頑丈な『スーツケース』のように見えます。長い棒のように尖った子は、端っこをポキンと折らないと入れられない。まんまるの大きなボールのような子だと、ふたが閉まらないからダメ。(略)ところが、『風呂敷』だったらどうでしょう。大風呂敷を広げておけば、棒の端っこが出ていても、みんなでなんとか担げます。ボールもなんとか包めます。」(『みんなの学校が教えてくれたこと』)。

 スーツケースではなく、風呂敷のような学校を作りたい。私も、心からそう思います。

 そんな学校は、国内外にたくさんあります。ぜひ、皆さんご自身で調べていただければ嬉しく思います。


苫野一徳
熊本大学教育学部准教授
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(教育学)。著書『はじめての哲学的思考』『教育の力』など多数。

※『月刊教員養成セミナー 2019年4月号』
「哲学する教育学者 苫野一徳の教育探求コラム  ―教師の卵に考えて欲しいこと」より

最終更新:3/21(木) 8:31
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