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【連載 名力士たちの『開眼』】大関・前の山太郎編 若くして“限界”を知らざるを得なかった悲劇の大関――[その1]

3/22(金) 11:00配信

ベースボール・マガジン社WEB

 何をやっても中途半端なことは分かっている。でも、さすがに今度だけは、こんな自分が情けねえ、と前の山(初土俵は金島、その後、前ノ山、前の山、前乃山などに改名するが、ここでは便宜上、前の山で統一する)は、つい先ほど負け越し決定の4つ目の黒星を喫したばかりの国技館をのろのろと足を引きずって出、まだ夏の名残をたっぷり含んだ9月の太陽が降り注ぐ蔵前橋のたもとにたどり着いたところで思わず立ち尽くした。

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

必死にもがいていた下積み時代

 確かに、前の山のちゃらんぽらんぶりには年季が入っていた。そもそも力士になる発端がそうだった。

 入門する前の前の山は、大阪の高校野球の名門、浪商(現大阪体育大浪商)高で、のちに怪童と言われた同期の尾崎(元東映)らと、毎日、真っ黒になって明日のプロ野球選手を夢見てボールを追いかける野球部員だった。

 ところが、ほんの数日、練習をさぼったことから校内の不良グループの一員と誤解され、それを解くのが面倒くさくなって退部。担任の先生の薦めで、今度は相撲部に籍を置くことになった。そして、いきなり大阪府の高校新人戦で3位に入賞。

「野球よりも、こっちのほうがオレには合っているかもしれないぞ。どうせやるんだったら、いっそのこと、プロでやったろか」

 と1年の終了間際、兄と2人で春場所のために大阪入りしていた下寺町界隈の相撲部屋を物色して回り、「高砂部屋」という看板を見つけて自分から飛び込んだのだった。

 ところが、首尾よく大相撲界に入門したものの、それからがまた一悶着。1度目は、入ってすぐの稽古で兄弟子の顔を思い切り張り飛ばし、

「この野郎、新弟子のクセに生意気だ」

 と“焼き”を入れられたことがきっかけで、2度目は新弟子につきもののホームシックにかかって、部屋から遁走。序ノ口に四股名が載りながら、その度に番付外に落とされ、前相撲から3度も取り直す、という前代未聞の珍記録をつくってしまったのだ。

 しかし、その後も、こんな不始末を性懲りなくしでかしながら、その度にすんなりと復帰を認められたのは、前の山の体のあちこちから磨けばとてつもない大物になりそうな、宝石の原石のような光を発していたからだった。

 やっと前の山がこの世界に定着し、ちゃんと土俵に上がるようになったのは、初土俵から半年後の昭和36年(1961)九州場所から。素質が素質だけに、こうなると出世はトントン拍子。と言いたいところだが、ここでも持ち前の中途半端な性格がちょいちょい顔を出し、調子のいいときはいいのだが、途中でちょっとでもつまずくと、

「ええい、もうこのくらいでいいや」

 とすぐ投げ出してしまうクセはなかなか改まらなかった。このため、大勝ちする場所と、大負けする場所はそれこそ交互に。

「あんまりこの、出来不出来が激しいものだからね。あるとき、自分が付け人をしていた若前田関(元関脇)に、『お前なあ、たとえ負け越しても、2勝5敗と3勝4敗じゃ、全然違うんだぞ』、と懇々と言われたことがあるんですよ。そうこうしているうちに、ハワイからジェシー(高見山)が入ってきたんだよね(39年2月)。とにかくものすごいパワーでね。たちまちみんなの注目を集めちゃっただろう。なんとしてもコイツにだけは負けたくない、と当時のオレは幕下に上がったばかりだったけど、ホント、真剣に考えたねえ。それからだよ、若前田関に言われた1勝の違いを本気で考えてやるようになったのは」

 と初土俵から13年後の49年春場所6日目限りで引退し、「高田川」を襲名した前の山改め高田川親方は、この霧にすっぽりと覆われた中で出口を求めて必死にもがいていた下積み時代を振り返る。

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