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戦後復興はルノー4CVとともに──連載「名車物語」第13回

3/23(土) 9:40配信

GQ JAPAN

1944年のパリ解放のよろこびもつかの間、ルノーはほどなく創業者のルイ・ルノーを失った。にもかかわらず、1台の革新的な小型車の開発プロジェクトは秘密裡につづけられていた。そうして誕生したのが「4CV」である。

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黄金虫、あるいはバターの塊

今から70年以上も昔の話となる、1946年10月のパリ・サロン。この会場にてルノーのニューモデル「4CV」が発表されたとき、詰め掛けた観衆たちは困惑の色を隠せなかったという逸話が残っている。ルノーが第2次大戦後初めて送り出す新作に期待していたパリの人々にとって、目の前に現れた新型車はあまりにも奇異なスタイリングを持つ上に、そのサイズもちっぽけで頼りないものに見えたのだ。

しかも出品車は、戦時中にアフリカ戦線向けに量産していた軍用車両に砂漠用の迷彩を施すためのサンドイエローに塗られていたことから「黄金虫」または「小さなバターの塊」という、あまりありがたくないニックネームまで頂戴してしまったという。

しかし、戦時中に受けた爆撃と開祖ルイ・ルノー翁を失ったことで壊滅状態にあったルノーを再建すべく奮闘していた現場のエンジニアたちは、このちっぽけなベーシックカーについて、絶対的なまでの自信を持っていた。

このクルマのプロジェクトが立ち上がったのは、まだフランスとルノーがナチス・ドイツの支配下にあった1940年夏のこと。ルノー研究部門No.2の地位にあったエンジニア、フェルナン・ピカールは秘密裏に「106E」と呼ばれるプロジェクトを立案した。その正体は戦前ルノーの最小モデル、1リッター級の「ジュヴァキャトル」よりもさらに小さなベーシックカー。言うまでもあるまい。のちの4CVの起源である。

ところでルノー4CVといえば、かつては「フェルディナント・ポルシェ博士が設計を手掛けた」との説がまことしやかに語られたこともあったが、それはまったくの誤りと言わねばなるまい。たしかにピカールがRRレイアウトを選択したのは、ポルシェ博士のKdF(のちのVW)の影響と言われている。また1945年4月のドイツ無条件降伏後、ナチス政府への協力容疑を懸けられてフランス国内の山荘に軟禁されていたポルシェ博士に、4CV開発チームは技術的なアドバイスを求め、博士はそれに快く応じた……、というエピソードが残されているのも事実である。

そして、これらの史実がのちにひとり歩きし、ポルシェ博士が4CVの設計者であるとの説に至ったものと推測されるが、時系列を見れば一目瞭然。4CVの開発は、ポルシェ博士にアドバイスを求めたとされる1945年には、ほぼ完成に近い段階にまで到達していたのだ。

さて、話をもとに戻そう。ピカールと配下のチームは106Eの開発を進め、’42年2月には水冷4気筒OHV760ccの試作エンジンを完成、関係者の士気は大いに上がった。ところがその翌月となる3月3日、プロジェクトの存亡に関わる大事件が発生する。

この日の未明、パリは連合軍による大空襲を受け、当時ドイツ軍の軍需工場として接収状態にあったルノーのビヤンクール工場も当然ながら標的とされた。そして、この爆撃で建物の半分と工作機械の3分の1を失った上に、それまで実験を重ねた成果である研究部門の資料ファイルの一切が焼失してしまったのである。

しかし、こんな絶望的な事態となっても、ピカールと部下たちは決して屈しなかった。彼らはその後も希望を失うことなく、自分たちの頭脳に記憶されたデータを頼りに作業を進めていった。そして、この年のクリスマス直前に1次試作車を完成させるに至ったのだ。

現代の目で見ても驚くほどに可愛らしいこの試作車だが、ドイツ軍の支配下にあった当時のルノー首脳陣には、その存在さえも知らせていなかったと言われる。ピカールたちは事実上の独断専行で試作車のテスト走行を敢行、このテストで自信を得たピカールは、それまで私的なものだった106Eプロジェクトを、いよいよ正式にプレゼンテーションする時期が到来したと考えるに至った。

そのプレゼンの場は、初代総裁ピエール・ルフォーショーの着任に際して行われた経営者会議であった。

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最終更新:3/23(土) 11:26
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