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美輪明宏さん(歌手、俳優)「人には必ず役目がある。舞台を通して皆さんに活力を吸収していただくのが私の役目です」【サライ・インタビュー】

3/24(日) 15:01配信

サライ.jp

――芸能活動68年、名誉都民に選出――
「人には必ず役目がある。舞台を通して皆さんに活力を吸収していただくのが、私の役目です」

名誉都民の賞状を背に。「男が女を愛し、男が男を愛し、女が女を愛しても、神の目から見れば人間が人間を愛してるだけのことです」
※この記事は『サライ』本誌2019年3月号より転載しました。年齢・肩書き等は掲載当時のものです。(取材・文/矢島裕紀彦 撮影/御堂義乗)

──昨年、名誉都民に選ばれました。

「最初にご連絡をいただいたとき、いったんはご遠慮したんです。私は社会に反旗を翻し、抗いつづけて生きてきたものですから、いただける筋合いはないと思いますって。でも、“小池都知事はじめ審査の方たちも満場一致で決まりました”と言われ、皆さんのご好意を無にするわけにもいかないのでお受けさせていただきました。これは、社会全体がリベラル(自由主義的)になってきた証拠だと思います。受賞理由も〈ジェンダー(性差)を超えて長年にわたり多方面に活躍して老若男女に支持されてきた〉ということでしたから」

──出身は長崎です。

「丸山遊廓に近い繁華街で生まれ育ち、父はカフェを経営していました。キャバレーとバーの中間くらいの店で、女給さん、今でいうホステスさんが20人近く働いていました。ボーイさんもいて、店の奥にたくさんの雑誌や本が積まれていた。子供ながらに、そういうものを読んで育ったんです。

店の隣は南座という芝居小屋で、小さい頃から自由に出入りしていました。役者衆にも可愛がられ、演出の仕方から大道具、小道具、衣裳、化粧まで、名優たちのいろんなものを側で見られました。そこでは映画も上映され、それこそ世界中の映画を観ました。向かいには楽器屋さん兼レコード屋さんがあって、あらゆる音楽が流れていた。さまざまな芸術的環境が整っていたわけです」

──原爆も体験しました。

「10歳の夏でした。家の2階の縁側で宿題の絵を描いていて、出来ばえを見ようと2~3歩後ろに下がったとき、白い閃光が走りました。一瞬の静寂のあと、凄まじい地響きがし、窓ガラスが飛び散り瓦が降ってきた。お手伝いさんに手を引かれ外に出ると、阿鼻叫喚の地獄絵図です。これが原爆の熱線によるものと知ったのは、大分、あとのことでした」

──その後、音楽の道を志したきっかけは。

「戦後まもなく、古川ロッパさん主演の『僕の父さん』(昭和21年)という映画を観たんです。そしたら、加賀美一郎さんという子役がボーイソプラノのとても綺麗な声で歌っていた。感動して繰り返し映画館に通い詰め、劇中歌を全部覚えました。それを学校の廊下で歌っていたら先生に見つかり、“あとで教員室にいらっしゃい”と。大目玉を食らう覚悟で行くと、他の先生方の前で歌わせられ、“この子、才能あると思いませんか?”って。その日のうちに先生が父に進言してくださり、バリトン歌手の先生が教える音楽教室で本格的にピアノと声楽を習うことになりました」

──音楽修業の始まりですね。

「中学校に入ると、歌への情熱は一層高まりました。私が進学した海星中学の創立者はフランス人宣教師で、戦時中は敵性語として禁止されていた英語とフランス語が戦後、必修科目として復活。フランス語を基礎から勉強できました。あるとき、家の前の楽器屋さんを覗いたら、フランス語の歌詞が書かれた楽譜がある。お店の人に頼んでレコードも聴かせてもらい、時々耳にしていたその音楽がシャンソンであることを知りました。その日から、独学でシャンソンを歌いだしたのです」

──中学を卒業後の進路は。

「東京の国立音楽高等学校(現・国立音楽大学附属高等学校)へ入学しました。でも、1年も経たないうちに家が破産して中退。下宿代も払えず、アパートを追い出されました。その頃、新宿駅の地下道や駅の構内には、焼け出された人が大勢寝泊まりしていました。私もそこに潜り込んでいたら、高校の上級生にばったり出会い“君、ジャズ歌えるか?”って。それからは進駐軍のキャンプを回り、ジャズを歌ってお金を稼ぐようになりました。

喫茶店でアルバイトもしました。そしたら、顔見知りになった学生から“今度、早稲田の喫茶店で、宝塚歌劇団出身の橘薫さんがシャンソンのコンサートをやるんで、前座で歌ってくれないか”と頼まれました。ふたつ返事で引き受けて歌うと、橘さんが認めてくれ、今のままじゃもったいないからと銀座の『銀巴里』を紹介してくれたんです」

──伝説的なシャンソン喫茶ですね。

「パリでは、文化人や芸術家の集まるカフェが文化の発信地になりました。そういうことを雑誌で読んで知っていたので、『銀巴里』もそんな店にしたいと思いました。そんな折、先々代の中村勘三郎さんが江戸川乱歩先生を連れて来られました。いろんなお話をすると面白い子だと気に入られ、そのあとすぐ三島由紀夫さんや川端康成先生もお見えになった。岡本太郎さんも常連で、飛び入りで『パリの屋根の下』なんか上手に歌っていました。他にも大勢の文化人の方が来られ、丁々発止、知的な議論を楽しんでおられました」

──パリのサロンのような空気だった。

「私が『銀巴里』で有名になったのは、ひとつは男でも女でもないという、お小姓ファッションです。日本には古くからそういう文化がありました。平安時代のお稚児さんや、元禄時代の色若衆。徳川綱吉の側用人の柳沢吉保は、全国から美少年を集めて歌舞音曲を仕込み、女物の柄の振り袖を着せて諸大名をもてなしました。柳沢十六人衆です。そんな伝統を復活させたわけです。それが〈神武以来の美少年〉などとマスコミで喧伝され、そのうちに、レコードを出さないかという話になって吹き込んだのがシャンソンの『メケ・メケ』です。これが大ヒットしました」

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最終更新:3/24(日) 16:07
サライ.jp

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