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日本人に愛された「ザ・デストロイヤー」さん 「力道山」次男が語る思い出

3/24(日) 7:31配信

デイリー新潮

 米現地時間3月16日に行われた葬儀では、東日本大震災慰問時の写真や、カタカナでその名が記された花輪が飾られたという。週刊新潮のコラム「墓碑銘」から、ザ・デストロイヤーさんを偲ぶ。

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 1963年5月24日、ザ・デストロイヤーと力道山の熱闘に日本中が釘付けとなった。デストロイヤーの必殺技、4の字固めに苦悶しながら力道山は耐えたが、レフェリー・ストップ。64%もの視聴率を記録した。

 力道山の次男でプロレスラーの百田(ももた)光雄さんは言う。

「試合から帰ってきた父をマッサージするのが子供の役目でした。脚を見るとへこんでいたのです。4の字をかけられた痕だ、と父が言ったのを憶えています」

 30年、ニューヨーク州のバファロー生まれ。本名はリチャード・ベイヤーで、ドイツ系。シラキュース大学大学院で教育学の修士課程を修めたインテリである。

 54年にプロレスデビュー。62年、覆面レスラー、ザ・デストロイヤーに。覆面は女性下着のガードルを素材に妻が長年手作りしていた。同年、WWA世界ヘビー級チャンピオンの座に就く。

 力道山が刺された63年12月の夜、飲みに行こうと誘われたが、アメリカでの試合のため空港に向かった。

「もし自分が一緒にいたら事件は起きなかったはずだ、と悔やむように何度も私に言ってくれた。温かい心の持ち主でした」(百田さん)

 73年以来、ジャイアント馬場と歩みをともにした。

「馬場に負けたら協力するという約束を守って全日本プロレスに入り、日本に家族を呼び寄せた。彼ほど日本に定着したレスラーはいないでしょう」(プロレス評論家の斎藤文彦さん)

 対戦相手の持ち味を引き出し、観客を沸かせた。

「Tシャツのようなグッズ販売を最初に始めた。本人が売り、サインもする。ファンの心をつかんでいました」(全日本プロレスの名誉レフェリー、和田京平さん)

 日本テレビ「金曜10時! うわさのチャンネル‼」に出演。和田アキ子からハリセンで豪快に叩かれた。

「プロレスでのシリアスな印象が変わって困るよ、と当初は馬場さんに言われましたが、その面白さからデストロイヤーファンがより増えたのです」(番組プロデューサーを務めた笈田光則さん)

 2男1女の父。愛妻が年下の日本人会社員と交際する波乱で77年に離婚。83年、アメリカで良縁に恵まれた。

 79年、故郷に戻る。高校のレスリングコーチを務め、84年から小学校の体育教師に。夏休みに日本で闘った。

 93年に63歳で引退した際には、長男のカート・ベイヤーさんと親子でリングに上がった。カートさんは日本語も堪能、日本で英字新聞の記者を務めたこともある。一転、プロレスラーを志し猛練習に耐えた。最終戦では、デストロイヤー親子と馬場がトリオを組み渕正信らと対決、有終の美を飾る。

「引退試合を親子で闘えてこれ以上のことはありません。私は4歳の頃、父が痛めつけられていると思い助けようとリングによじのぼったことがあります。大人になってやっと手伝うことができました」(カートさん)

 レスリング選手として活躍した木口宣昭さんは言う。

「レスリングをする子供達を連れて来日、私の道場と一緒に日米親善の大会を長年続けました。清い心、強い体、的確な状況判断ができる良い頭が大切との考えが全く同じで意気投合した」

 デストロイヤーの一家と親しく、自伝の翻訳もした束田時雄さんも言う。

「故郷では教育者として慕われ、尊敬されていました」

 2016年まで毎年のように来日、大震災の被災地も励ました。17年秋の叙勲で旭日双光章の栄誉に輝く。

 足が弱り、昨秋から体調を崩しがちでも盟友思いだ。

「今年2月のジャイアント馬場没20年追善興行に参加しようとリハビリを続けていたのです」(束田さん)

 自然と衰えた。現地時間の3月7日、家族に見守られ、自宅にて88歳で逝去。

 遺志に従い、ハワイで散骨の予定だ。日本でセレモニーが行われるなら喜んで協力すると遺族は語る。初来日から55年余、ファンの前で覆面は取らなかった。

「週刊新潮」2019年3月21日号 掲載

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最終更新:3/24(日) 7:31
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