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武田氏は、鉄炮を軽視していない! 長篠合戦の知られざる構図

3/25(月) 12:12配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

現在発売中の『歴史街道』2019年4月号で、歴史家の平山優氏は、世界史の波が武田氏と北条氏の滅亡に与えた影響について論じている。しかしそもそも、武田氏が織田・徳川連合軍に敗れた長篠合戦について、誤解があるという。それはどういうことなのか。

武田氏は、鉄炮を軽視していない

戦国時代の合戦について、次のように言われることがある。
武田勝頼は、鉄炮の重要性を認識せずに、長篠合戦で織田信長に敗れた。
北条氏政・氏直父子は、自らの力を過信して、小田原合戦で豊臣秀吉に敗れた──。
ようするに、武田氏と北条氏は「時代の流れを読めずに滅びた」というのだ。
しかし、そうした見方は一面的に過ぎる。奇しくも、敗れたのは武田氏、北条氏という東国の二大国であり、勝利をおさめたのは織田氏、豊臣氏という畿内・西日本勢力なわけだが、そこには少なからず、世界史の影響が見て取れるのだ。  そもそも長篠合戦は、「新戦法対旧戦法」という図式で語られることが多い。  
3000挺の鉄炮で三段撃ちさせた信長=「先見性に富む軍事的天才」、騎馬隊で挑んだ勝頼=「保守的な愚者」とする見方だ。
しかし、勝頼が鉄炮を軽視したというのは、全くの誤りである。  
武田氏は、東国では最も早い段階で鉄炮を導入している。弘治元年(1555)の第2次川中島の戦いでは、300挺から成る鉄炮衆を派遣している。
さらに、装備の割合で見ても、決して低いわけではない。
武田氏は家臣に鉄炮の装備を積極的に促しており、軍役定書という軍備に関する命令から計算すると、軍役員総数に対して、鉄炮の割合は約10.7パーセントとなり、弓の割合とほぼ同じとなる。
ちなみに、上杉氏の鉄炮の割合は、約5.7パーセントである。
だが意外なことに、信長と鉄炮の関係性を示す文書は武田氏と比べて少なく、鉄炮の割合はわからない。
しかし長篠では、兵3万5千、鉄炮3000挺、さらに酒井忠次率いる別働隊に鉄炮500挺を預けたとされるので、その割合はほぼ10パーセントと見ていいだろう。
つまり、分母こそ異なるものの、割合で見ると、武田氏と織田氏はほぼ同率となる。
なお、長篠城をめぐる戦いでは、武田方の鉄炮による城壁の損傷が激しかったとされ、勝頼も少なからず鉄炮を用意していたと考えられる。勝頼は決して、鉄炮を軽視してはいなかったのだ。

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最終更新:3/25(月) 12:12
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