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イチロー引退会見で読み取れた、番記者たちの“地獄”と信頼関係。

3/26(火) 8:01配信

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 『イチローの取材 「地獄でした」 』

 地獄という強烈な言葉。

 イチローが引退表明した翌日、デイリースポーツ5面の見出しである。

【写真】現役ラストの雄姿と、清原とのレアな1枚。

 記事を書いたデイリーの小林記者はイチローがメジャー1年目の2001年に初めて野球を担当したという。そんなルーキーに当時27歳のイチローは容赦なかったと振り返る。

 《「次どうぞ」、「それ、答えなきゃいけないかな」。記者の質問をことごとくはねつける。無言でスルーされる。そこまで厳しくされる理由が分からなかった。》(デイリー・3月22日)

 それから3年後に初めて単独インタビュー。イチローが求めていたのは「プロフェッショナル」だったことを知る小林記者。

 後年、「(あの頃は)地獄でした」とイチローに語ったという。引退を伝える記事の最後は「イチローには感謝の言葉しかない」。

「僕に鍛えられたんだから……」

 同じ紙面には「'94年~'97年までオリックス担当」の記者が、

 《記者泣かせの選手だった。》 《想定通りにやりとりが進んだことなんてなかった。》

 《「学級新聞じゃないんだから」。時に叱られ、呆れられ……。ほめられたことなんてなかったと思う。》

 と振り返る。

 後に再会したイチローに「僕にあれだけ鍛えられたんだから、取材でコワイものなんてなくなったでしょ?」と言われ、「やはり確信犯だったかと苦笑するしかなかった」。

 イチローからすれば自分を取材する記者も当然プロフェッショナルであるべきと考えていたのだろう。イチローの番記者になったら高レベルを求められる。うかつな質問はできない。

 ああ、他人事ながら読んでて緊張してきた……。

20歳の選手に課された“宿題”。

 そういえば同じく引退を伝える翌日のスポニチには「'93年~'94年オリックス担当」記者の'94年の回想があった。ある日、イチローの打撃フォームに違和感があったので「打ち方変えたの?」と聞くと、

 《「どこが変わったのか考えてください」と、イチローから宿題を課された。》(スポニチ・3月23日)

 よーく考えぬいて数日後に「右足の使い方がこれまでと違うよね」と記者が答えると、イチローは「本当は去年もこの打ち方をしていた時があったんですよ」と返してきたという。

 このやりとりから、右足を時計の振り子のように使う打撃フォームのことを記事にしたら「振り子打法の名付け親」と記者は言われるようになった。

 当時20歳の選手から課された“宿題”に対して必死に記者が答えた結果である。イチローと番記者の問答のようなやりとりの日々が目に浮かぶ。イチロー番ってすごいなぁ……。

 私はこれらのエピソードが載った紙面を読んでいたら、あの引退会見をもう一度検証してみたくなった。

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最終更新:3/27(水) 8:16
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