ここから本文です

松本清張生誕110年「巨匠最晩年の素顔」(上)

4/8(月) 16:18配信

nippon.com

四方田 隆 (元「週刊新潮」担当編集者)

今年、松本清張生誕110周年となるが、『砂の器』がテレビでリメイク放映され、横浜の文学館では特別展が開催されるなど、いまだに清張人気は衰えていない。最晩年の作家の素顔を当時の担当編集者が紹介する。その前編。

横浜市にある「港の見える丘公園」のなかに、県立神奈川近代文学館はある。
 2019年3月16日より、同館で特別展「巨星・松本清張」が開催されている。会期は5月12日まで。
 松本清張氏は、1909(明治42)年12月21日に福岡県の小倉で生まれた。今年で生誕110周年を迎える。

 私は、一般よりひと足早く、開催前日に催された内覧会を訪ねた。
 高台にある公園から横浜港が一望できる、よく晴れた日だった。
 お目当ては、私が最後に担当した『週刊新潮』連載の作品、『甲州霊嶽党』(こうしゅうれいがくとう)の絶筆原稿である。
 巨匠は、92(平成4)年4月20日、脳出血で倒れ、東京女子医大病院に運ばれた。
 仕事場の机の上には、愛用のモンブランの万年筆とともに、連載20回目となる『甲州霊嶽党』の原稿が、書きかけのまま残されていた。

 脳出血の手術は成功した。しかし、このとき肝臓ガンがみつかり、そのまま入院先で8月4日に亡くなった。享年82。
 遺稿は、同年9月3日の週刊新潮に掲載された。数日前に、私はその原稿をご家族から受け取っていた。絶筆は、400字詰め原稿用紙で30枚である。
 手にしたときの、震える感覚はいまだに忘れもしない。

 それから数年を経て、私はその原稿を、北九州市小倉にある北九州市立松本清張記念館で、展示されているガラス越しに眺めていた。
 そして三たび、30代前半の頃に手にした絶筆原稿を目にする機会を得たわけである。

 よく、「清張さんってどういう人だったのですか」と聞かれる。ご年配だけでなく、若い人からも、である。それだけ世代を超えて根強い人気があるということだ。
 先生がお亡くなりになるまで、各出版社、数々の名編集者が担当されている。私にこの偉大な作家を語る資格があるとはとても思えないが、たまたま最晩年を担当させていただいたというご縁から、ささやかな思い出話をご紹介したいと思う。

1/4ページ

最終更新:4/8(月) 16:31
nippon.com

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事