ここから本文です

山田久志が語る谷繁元信獲得秘話。「名古屋って、難しいところだよ」

4/11(木) 6:50配信

webスポルティーバ

連載「礎の人 ~栄光の前にこの人物あり~」第3回:山田久志(前編)

 派手なファインプレーは誰が見てもわかる。優勝の瞬間のヒーローもまた万人は知る。しかし、その場の勝利は遥か彼方にありながら、創成期や過渡期のチームを支え、次世代にバトンを渡すために苦闘した人物に気づく者は少ない。礎を自覚した人は先を見据えた仕事のしかた故にその結果や実績から言えば凡庸、否、惨憺(さんたん)たるものであることが多い。しかし、スポーツの世界において突然変異は極めて稀である。チームが栄光を極める前に土台を固めた人々の存在がある。「実はあの人がいたから、栄光がある」という小さな声に耳を傾け、スポットを浴びることなく忘れかけられている人々の隠れたファインプレーを今、掘り起こしてみる。

【写真】「俺を地獄に落とすのか」田尾安志は 楽天監督就任のオファーに困惑した

 連載3回目は、2002年から2003年9月まで中日ドラゴンズの監督を務めた山田久志。

 2004年から8年間、ドラゴンズを率いた落合博満の監督としての成績は、リーグ優勝4回、2位3回、3位1回、そして日本一が1回。すべてがAクラスで名将の名をほしいままにしている。しかし、この黄金時代に至る礎を作った前任者がいる。

 前任者は、谷繁元信を横浜ベイスターズからFAで獲得した。見落とされがちだが、この大仕事は歴史を作った。

 さらに当時、内野手だった福留孝介を外野にコンバート、それまで外野との併用も多かった荒木雅博と井端弘和を内野に固定して、通称”アライバ”の二遊間を構築する。

 そして言わずと知れた岩瀬仁紀を筆頭とする投手陣の育成。ブルペンを整備して投手王国の礎を築き、以降10年以上、安泰となった中日のセンターラインを固めた人物である。

 前任者、現役時代284勝を上げた山田久志は阪急ブレーブスの大エースで、中日とは縁もゆかりもなかった。それを星野仙一監督が第二次政権時代(1987-1991年)に三顧の礼をもって投手コーチとして迎え入れた。

 山田は星野の前にジャイアンツの長嶋茂雄監督からピッチングコーチのオファーを受けながら、家庭の事情でこれを断っている。

 この誘いは、当時ジャイアンツのオーナーだった渡邉恒雄直々の指名であった。ミスター(長嶋)は言った。

「山ちゃん、これは渡邉会長の直々の指名なんだよ。山田を獲れと」

 それ故か、条件は破格で、年俸の他に世田谷に50坪の土地付きの家を一軒、提供(貸与ではなく、文字どおり贈与)するというものであったが、それでも固辞した。

 ミスタープロ野球、長嶋の誘いを蹴りながら他球団に行くという不義理は山田の本意ではなかったし、ドラゴンズの提示条件はもっと低かったはずである。そこを稀代のオーガナイザー、星野は口説き落とした。

 星野が山田の手腕に惚れ込んだのは、山田がNHKの解説者時代に、中日の沖縄キャンプの視察を依頼してその感想に触れた時と言われている。

「どうだ?」と聞かれて、山田は直言した。「こんな練習じゃあダメです」「いや、俺はやらせてるつもりだけどな」「すべてにおいて甘いです」ただ無駄な時間を過ごしているという感じが山田にはあった。

 中日というチームはOBがコーチのポストを占めることが多く、慣れ合いが常だった。星野自身、現役時代は午前11時には宿舎に上がっていたという。外の血を入れなくてはこのチームの改革は出来ないと、星野は自著でも語っている。

 山田は星野が勇退後、跡を継ぐ形で2002年に監督に就任。経緯から見ても明らかのように、星野のバックアップが約束されていた。星野は自分が培ってきた野球を託せるのは、山田しかいないということで監督の座を禅譲したのである。

 ところが、その星野が急遽阪神タイガースの監督になってしまう。元々が外様である山田は後ろ盾を失い、組織内において完全アウェー、孤立無援の立場に置かれる。それでも粛々と前年度5位に終わったチームの改革に着手して、Aクラスに浮上させ幾つもの種を植えた。

 しかしながら、花が咲くその前に3年契約の途中で解任されてしまう。

 あれから、16年が経過した。あらためてその足跡を検証する。

1/2ページ

最終更新:4/11(木) 6:50
webスポルティーバ

記事提供社からのご案内(外部サイト)

Sportiva

集英社

スポルティーバ
4月4日(木)発売

定価 本体1,800円+税

フィギュア特集『羽生結弦は超えていく』
■羽生結弦 世界選手権レポート
■羽生結弦 グランプリシリーズプレーバック
■宇野昌磨、髙橋大輔、紀平梨花、坂本花織ほか

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事