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1973年生まれ同士がU2に会ったエピソード【西寺郷太のPop’n Soulを探して】

4/14(日) 9:30配信

FINDERS

ノーナ・リーヴス・西寺郷太さんとFINDERS編集長米田の音楽をテーマにした対談連載がスタート!同じ1973年生まれ同士ということで、お互いの音楽史を振り返りながら、毎月、さまざまなミュージシャンや音楽シーンについて語り合います。生粋のマイケル・ジャクソン&プリンス・ファンとして知られ、彼らに関する著作も出版し、作家としても活動されている西寺さん。ミュージシャン・音楽プロデューサーであり、かつ超ド級のポップ史研究家でもあります。2人が生まれた70年代から10年代までの音楽を引き合いに出しながらも、お互いの独自の批評や体験談を織り交ぜた対談になる予定です。では、第1回はあの「世界で最も売れているバンド」に出会った2人のよもやま話から。

90年代の終わり、好景気に浮かれていた音楽業界の中で

米田:郷太さんは73年生まれ同士ということで、僕は早生まれなんですけど、一浪して大学に入ってるので、郷太さんとは同学年でもあって。で、僕もその昔はミュージシャンを目指していて……。

西寺:え、そうだったんですか!?

米田:下北沢CLUB Queの昼の部に出たりしてましたよ。Queでノーナ・リーヴスのライブも観たことあるんですよ。

西寺:僕が、ノーナ・リーヴスの前のバンドで、渋谷のLa.mama夜の部に出れなかったみたいな話ですね(笑)。

米田:で、とあるレコード会社から声がかかったんですけど、その時に言われたのが、「君は天才だ、だけどルックスに華がない」って(笑)。それから、「4年間で4,000万円投資するから、回収する覚悟はあるか?」って訊かれたんで、「いや、ないっすね、それは」ってきっぱり言いました。とりあえずタイアップ付けて、ダサい売り方されるんだろうなということは想像できたので。

西寺:色々、ありますよね(笑)。でも4年で4,000万って、今の新人に比べたら4年もらえること自体が優しい時代だった気もしますけどね。今よりレコーディングも宣伝も何倍もお金かかった時代ですし。ま、レコード会社の人の意見って聞くべき部分と無視すべきものがあって。僕らも、デビューして5年後くらいかな?ボブ・サップとデュエットしないかっていう話をレコード会社の人に持って来られたことありましたもん(笑)。もちろん断りましたけど、それをやるかやらないかはその後の信用性に関わることだから。

米田:たしかに。

西寺:米田さんは(パートは)何をやってたんですか?

米田:宅録で全部やってて。大学時代はTREMOLO & AC9Vっていうバンドを組んで、渋谷の屋根裏とか新宿のジャムといったライブハウスで演奏してましたね。大学を卒業してからも4年ぐらいはフリーターをしながらミュージシャンを目指してがんばってたんですけど、なかなかソロデビューできずで。でも、某プロダクションから声がかかって、下北沢の路上で弾き語りをしてる3人組──女性ヴォーカル1人、男性2人っていうドリカム編成で、嘘のストーリーを作ってデビューしないかっていう話もあったんだけど、それってダサくないか?って思ってしまって。今覚えば当時の自分は青かったなあと思うんですが、実際に1年後くらいに深夜の音楽番組をたまたま観てたら、僕が抜けて新しい人が入った3人組がゲストで出てたんですよ(苦笑)。「ああ、メジャーデビューしたんだな」って。

西寺:うんうん。

米田:僕、デモ音源が出来たら、ビースティー・ボーイズのグランドロイヤルとかオアシスやプライマル・スクリームが所属していたクリエイション・レコーズとか、ベックが出してたKレコーズにCDを国際郵便で送っていたんですよ。好きな海外のミュージシャンのいるレコード会社やレーベルにね。そのアーティストが来日した時に、レーベルの人間から電話かかって来るんじゃないかって期待しながら。今考えると相当アホなんですが(苦笑)。それぐらい洋楽にかぶれてたから、邦楽の“ゲイノー”的なのはイヤだと思って、断ると同時に、自分自身もミュージシャンを目指すことに見切りをつけたんですよね。楽器も売って、他人のライブも何年も観に行かなくなって。で、音楽の次に好きだったものが本と雑誌だったので、編集者になろうと考えたんです。

西寺:なるほど。それが98、9年ぐらいの話ですかね。ノーナ・リーヴスがワーナーミュージックからデビューして間もない頃。

米田:で、今回の対談のテーマなんですけど、同じ1973年生まれということで、音楽も近いところを体験してるはずなので、そのあたりをざっくばらんに……。

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最終更新:4/14(日) 9:30
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