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黄金世代の加地亮が求めたものは、代表入りでもW杯出場でもなかった

4/15(月) 6:22配信

webスポルティーバ

世界2位の快挙から20年……
今だから語る「黄金世代」の実態
第4回:加地亮(後編)

 1999年4月末、U-20日本代表はワールドユース準優勝という結果を引っ提げて凱旋帰国した。

【写真】小野伸二が天才でなくなった日

 同代表メンバーとしてナイジェリアの地で奮闘した加地亮(かじ・あきら)は、その経験を踏まえて、さらなる成長を図るため、自身の担当エージェントに「海外へ移籍したい」と申し出た。

 エージェントは、加地の訴えにこう答えた。

「おまえ、アホか」

 それは、痛烈なひと言だった。

 1999年4月時点において欧州でプレーしていた日本人は、カズこと三浦知良と、中田英寿のふたりだけ。カズは日本人プロサッカー選手の第一人者でもあり、1994-1995シーズンにはイタリアのジェノアでプレーし、その当時はクロアチアのディナモ・ザグレブに在籍していた。

 中田は日本が初のW杯出場を果たした前年のフランス大会で、代表チームのエースとして君臨。その後、1998-1999シーズンにイタリアのペルージャに移籍して、開幕戦のユベントス戦で2ゴールを挙げる鮮烈デビューを飾った。

 当時、日本人が海外に挑むには、中田のレベルが求められ、日本を代表するトッププレーヤーに限られていた。そのレベルの選手にしかチャンスは与えられず、ワールドユースでベスト11に選出された小野伸二や本山雅志でも困難な状況にあった。

 そんななか、Jリーグの所属クラブ(当時セレッソ大阪)でレギュラーでもなく、ワールドユースでも控え組だった加地が、同世代の小野らはもちろん、日本代表で活躍する選手たちを差し置いて海外に行くのは、夢物語でしかなかった。

 そういう意味では、エージェントの回答は至極まっとうなものだった。

「エージェントに『何を考えてんねん』と言われて、その翌年(2000年)にはJ2の大分トリニータに移籍した。

 当時、若手育成に定評がある石崎(信弘)さんが、大分の監督だったんですよ。(石崎監督には)めっちゃしごかれたけど、それがよかった。自分は体がまだ弱くて、プロで戦える土台ができていなかったんでね。ここであかんかったら『(プロとして)終わりや』という気持ちでやっていた」

 ちょうどその頃、ワールドユースでともに戦った仲間たちは、そのままシドニー五輪出場を目指す代表チームに選出され、高原直泰や稲本潤一をはじめ、加地とポジションを争った酒井友之らは本番の2000年シドニー五輪にも出場し、日本サッカー界のメインストリートを突き進んでいた。

「俺は、五輪とかは考えてへんかったね、その頃は。だから、イナ(稲本)とか酒井ら同世代がシドニー五輪で活躍しても、別になんとも思わへんかった。だいたい俺は、U-20代表で一番ヘタくそやったし、大会に入っても試合に出られるとは思ってへんかった。

 そんな状態で五輪のメンバーに入っても、最後は『落ちるやろ』って思っていたからね。だから(当時は)、五輪に出たいとかそういう思いはなく、『自分がこうなりたい』というものを追い求めていた」

 加地は当時、どうなりたいと思っていたのか。

「(自らのポジションである)サイドで求められるもん、すべてを得たいと思っていた。得点やアシストに絡む攻撃、個で負けない守備、90分間落ちない体力……そのうえで、戦術理解度が高い選手になりたいと思っていた。だから(当時は)やることがいっぱいありすぎて、代表レベルには『まだまだ到達せえへん』って自覚してやっていた」

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最終更新:4/15(月) 6:22
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