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金石昭人 400勝左腕とキャッチボールをしてプロを目指した男/プロ野球1980年代の名選手

4/16(火) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

2人の叔父に背中を押されて

 ふだん同い年や年齢の近い仲間たちとキャッチボールを楽しむ小学生が、たまに大人とキャッチボールをすると、多少は手加減してもらっていたとしても、球の速さや重さに驚くことだろう。それは現在も、そして1980年代であっても、変わらないように思える。そのとき、「将来、野球をやれ!」と大人から言われても、多くの少年たちは、それを真に受けることはあるまい。その日は天にも昇る気持ちになるかもしれないが、勉強に追われ、女の子を追いかけているうちに、そんな言葉は忘れ去ってしまうだろう。

 だがもし、その大人が、プロ野球で通算400勝を挙げた金田正一だったらどうだろう。天に昇るどころか、天をも突き抜けるかのような気持ちになることは想像に難くない。ただ、そんな名選手と小学生でキャッチボールができる環境を創造することのほうが難しい気もする。しかし実際に、叔父が金田という環境で育ち、その叔父とキャッチボールをしたことでプロ野球選手を目指した少年が、のちに広島、日本ハムなどで活躍した金石昭人だった。

 とはいえ、プロ野球どころか、アマチュアであっても、そんな“七光り”だけで戦力になるほど、野球は甘くない。叔父と同じ投手だったが、PL学園高ではエースの西田真次(のち真二。広島)に続く2番手で、甲子園のマウンドは踏めなかった。それでもドラフト外で79年に広島へ。その79年にロッテから広島へ移籍した金田留広の“バーター”ともいえる形だった。

 この留広は70年代に2度の最多勝に輝いた右腕で、正一の末弟。言うまでもないが、叔父にあたる。だが、当時の広島は“投手王国”。なかなかチャンスは巡ってこず、その貴重なチャンスを生かす実力も備わっていなかった。それでも、正一の「ランニング・イズ・マネー」という教えを実践して、ひたすら走り込む。

 恵まれていたのは、2人の叔父だけではなかった。197センチの体躯は、下半身が強化されることによって、時間はかかったものの、着実にプロで通用するものになっていく。長身ながらスムーズな投球フォームで、球速よりもキレとコントロールで勝負した。プロ7年目の85年、ようやく一軍に定着。白星はプロ初勝利を含む6勝にとどまったが、うち5勝は完投で飾り、それが自信につながる。そして翌86年、ついに“投手王国”の先発ローテーションに食い込んだ。

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最終更新:5/4(土) 17:38
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