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石本貴昭 “鈴木啓示2世”のブレークの秘訣は“脱・鈴木”?/プロ野球1980年代の名選手

4/18(木) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

“草魂”が乗り移った“鈴木2世”

「パ・リーグのお荷物」と言われていた時代から初優勝、そして連覇と、長く近鉄を支え続け、通算317勝を積み上げたエースの鈴木啓示が「ワシは“草魂”から魂の抜けた、ただの草になってしまった」と、唐突にグラウンドを去っていったのが1985年シーズン途中。近鉄は岡本伊三美監督だったが、打線の破壊力は健在ながら、投手陣は先発の大黒柱が倒れたことで、「打線が爆発した試合に信頼できる救援投手を投入して勝ちを拾っていく」という“特攻ローテーション作戦”を余儀なくされた。

 その“救援ローテーション”の柱として、やはり唐突に、プロ5年目のブレークを遂げたのが、鈴木と同じ左腕で、かつて“鈴木2世”と期待を受けた石本貴昭だった。先発完投にこだわった鈴木とは先発の柱、救援の柱と役割は対照的だったが、よく似た投球フォームもあって、まるで鈴木から抜けた“魂”が乗り移り、ふたたび近鉄のマウンドでよみがえったように見えたファンも少なくなかったのではないだろうか。

 近鉄が初のリーグ連覇を飾った80年に兵庫の滝川校のエースとして春夏連続で甲子園に出場し、ドラフト1位で81年に近鉄へ。エースの鈴木も同じ兵庫の出身で、

「僕、鈴木さんのモノマネもうまいんですよ」

 と胸を張る投球フォームの似た若き左腕が“鈴木2世”と呼ばれるのは自然な流れだったのかもしれない。だが、1年目こそ11試合に登板して、2試合目の先発登板となった7月1日の南海戦(日生)ではプロ初勝利も挙げたが、そこから2勝目までには、長い時間を要することになる。翌82年は一軍登板なし。続く83年には10月21日の阪急戦(藤井寺)でシーズン初登板を果たすも、最終的には両チーム計32点の乱打戦となった試合だったこともあるが、打者7人に対して被安打5、うち本塁打2、5失点と炎上。結局、この1試合だけに終わって、シーズン防御率108.00という数字を残してしまう。

 その翌84年も1試合の登板にとどまるも、救援のマウンドと条件こそ同じだったが、4イニング2/3のリングリリーフで無失点に抑えるなど、内容は雲泥の差だった。

 そして迎えた85年はリーグ最多の70試合にフル回転。ある日はセットアッパー、またある日はクローザーと、すべて救援のマウンドで規定投球回にも到達して、19勝3敗7セーブ、リーグトップの勝率.864をマークする。救援登板のみの19勝は巨人V9の1年目となる65年の“8時半の男”宮田征典に並ぶ最多タイで、最多勝のタイトルこそ阪急の佐藤義則に譲ったものの、最優秀救援投手に輝いた。

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最終更新:4/18(木) 17:23
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