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【連載 名力士たちの『開眼』】横綱・旭富士正也編 捨て身になってかかった人間の強さ――[その2]

4/19(金) 12:16配信

ベースボール・マガジン社WEB

 この母の死から2場所後の昭和58年(1983)春場所、待望の入幕を果たした旭富士は、再び快調に番付を駆け上がり始めた。初めて小結に昇進したのは入幕して5場所目の九州場所。その翌場所、2日目の北天佑戦で右足を痛めて休場し、いったん幕尻まで後退したが、すぐ盛り返すと、たちまち三役に定着してしまったのだ。

【連載 名力士たちの『開眼』】横綱・旭富士正也編 捨て身になってかかった人間の強さ――[その1]

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】近大に入学してすぐ、西日本新人戦に優勝した旭富士だったが、2年に進級して間もなく中退。郷里の青森に帰って漁師の手伝いをしていた。そんな折、知り合いの声掛けで大島部屋に入門、スピード出世を続けていたが、母が突然亡くなってしまう――

「稽古嫌い」は旭富士の演出

 当時の大相撲界には、この旭富士のほかにもう一人、注目の若手がいた。のちの第62代横綱大乃国である。この大乃国は、旭富士より年齢は2つ下だったが、入幕した場所もまったく同じ。しかも、体型や、性格、相撲っぷりなど、まったく対照的。こんな面白い取り合わせを、鵜の目鷹の目のマスコミが黙って見逃すはずがない。

「新ライバル出現」と銘打ち、二人をことあるごとに取り上げ、強引に競争させた。振り返って見ると、これが恥ずかしがり屋の旭富士のヘソを曲げるきっかけだったかもしれない。

「オイ、新聞記者が来ていないか、見てこいよ」

 旭富士は、いつも高砂部屋の稽古場の近くに来ると、付け人にそっと耳打ちした。だれもいないということが分かればそのまま入っていって、近大の先輩でなにかにつけてよくかわいがってくれる朝潮や小錦、それにしょっちゅうここに出稽古に来ている横綱千代の富士らの胸を借りる。一人でもいると、そのままUターンして、また自分の部屋に帰るか、稽古を手抜きする。これが旭富士がとる行動パターンだった。

 当時のスポーツ新聞をひっくり返すと、稽古好きの大乃国、稽古嫌いの旭富士という文字が氾濫している。しかし、この「稽古嫌いの旭富士」は、あくまでも旭富士がわざとつくり出した仮の姿だった。

 ――力士は、土俵の上だけで本当の力を出せばいいんだ。舞台裏はむやみに見せるものじゃない。

 旭富士は、こんなふうに真の力士のあるべき姿を設定したのだ。

 ――稽古しないで勝てるほどこの世界は甘くない。ちゃんと分かってくれる人は分かってくれるさ。

 こう旭富士は自分に言い聞かせ、みんなの目の届かないところで黙々と泥まみれの努力を続けた。惚れ惚れするような名人芸を持っている職人ほど、頑固でかたくななものだが、旭富士もそういう資質を持った職人力士だったのである。

 年下の大乃国なんかに負けてたまるか。こんな性格だけに、正面切ってではなかったものの、ライバル意識も人一倍。この旭富士が、大乃国に負けないために目の色を変えて取り組んだのが体力アップ作戦だった。

 というもの、体重が最高時で200キロの大台を超えた大乃国は、入幕したときすでに150キロを超えるジャンボサイズ。これに対して、旭富士は、128キロしかなかった。

 こんな巨漢の大乃国に真っ向から対抗し、打ち破るには、自分もちょっとやそっとのことには動じないような体重をつける以外にない、とソロバンをはじいたのだ。そのためには、まず食べることである。

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最終更新:4/19(金) 12:16
ベースボール・マガジン社WEB

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