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鹿児島唯一の甲子園優勝投手、元横浜・下窪陽介氏の野球人生/パンチ佐藤の漢の背中!「1」

4/20(土) 11:01配信

週刊ベースボールONLINE

甲子園の優勝旗を初めて鹿児島県に持ち帰ったエースはプロ野球を引退し、現在は国内2位のお茶の生産量を誇る鹿児島県から家業の「お茶」をPRしている。「現役を引退してから別のお仕事で頑張っている元プロ野球選手」をパンチさんが直撃する対談連載、今回は元横浜の下窪陽介さんにお話をうかがいました。

大学3年時に打者転向、社会人6年目のプロ勝負

 鹿児島実、樟南、神村学園など甲子園常連の名門校を擁する鹿児島県。しかし意外や、鹿児島代表が全国制覇を果たしたのは、第86回センバツ大会(96年)の鹿児島実ただ一校だった。

 その鹿児島唯一の甲子園優勝投手が、今回ゲストの下窪陽介さん。「消える」とさえ言われたスライダーを武器に、春夏通じて初の快挙を成し遂げた。

パンチ 下窪君は、センバツの優勝投手なんだよね! あのときは、あれよあれよという間に勝っていった感じ? それとも「俺たち、強えぜ」って感じだった?

下窪 地方大会から、もう負けないっていう感じでした。

パンチ どんなチームだったの?

下窪 守って、最少点で勝つという。自分も抑えることができましたので、1対0とか2対0という感じで、勝ち進んでいきました。

パンチ じゃあ甲子園に出て「やった!」というより全国制覇を目指していたような感じ?

下窪 はい、最初からそうでした。

パンチ そこでそのままプロに行かず、大学に進んだのはなぜ?

下窪 ドラフト3位以上じゃないとプロには行かせないという鹿児島実業のしきたりがあったんです。それで、5巡目という話だったので……。

パンチ 日大時代に、ピッチャーからバッターに転向したんだ。

下窪 僕、夏の甲子園で肩を壊してしまいまして。だから日大に行って1年間は、野球をやっていないんです。「もう野球はいいや」っていう気持ちにもなっていたんですが、その後肩が治って投げてみたら、いきなり147キロくらいまで伸びてきて、「まだやれるな」という気持ちになりました。

パンチ いいあきらめが、ちょうどいい休みになったんだね。慌ててやったらダメだったんだ。

下窪 でも、当時球の速いピッチャーが日大にはたくさんいたんです。千葉ロッテに行った清水(清水直行)さんとか阪神に行った吉野(吉野誠)さんとか、プロにも5人くらい行っています。それで3年のとき、監督さんに「お前、野手やれ」と言われました。

パンチ そこから日通に入社したのか。俺らのころは、『ペリカン打線』とか言われていたんだよ(笑)。社会人の思い出はどう?

下窪 社会人は楽しかったです。野球がすごく楽しかった。練習をあまりしないんです。全体練習が終わったら、ほとんどの時間が自主トレ。僕はそれがよかったんじゃないかと思います。自分で「どうやったら打てるか」と課題を持って、自分で考えながら練習することができました。

パンチ それは熊谷組も同じ。下窪君は社会人に6年いたんだね。

下窪 あのときは、社会人野球を辞めようと思っていたんですよ。6年もやったんで、もういいかな、と。そんな年齢で、プロはほぼ無理。それなら野球を辞めて、実家に帰ろうと思っていました。

パンチ なるほど。そうしたらラストチャンス、神様が「勝負してみろ」ってことで、指名されたわけだ。

下窪 はい。それなら、納得いくまでやってみようと思いました。

パンチ 僕もそんな感じだった。30歳までだったら、やり直しがきくから。5年間、勝負してみたいという気持ちで入ったんだ。

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最終更新:4/20(土) 11:01
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