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古地図から見える関東大震災…東京で震度7を記録した地域は?

4/21(日) 10:00配信

幻冬舎ゴールドオンライン

今回は、関東大震災のメカニズムと被害状況から、東京を中心とした首都圏が抱える地震のリスクについて考えていきます。本連載は、建築耐震工学、地震工学、地域防災を専門とする名古屋大学教授・福和伸夫氏の著書、『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』(時事通信出版局)の中から一部を抜粋し、大震災の危険性はどれほど高まっているのか、さらに対策はどれほど進んでいるのかを紹介しながら、防災・減災に向けた早急な対応の必要性を説いていきます。

「想定外」を反省した気象台長

寺田寅彦は、上野の喫茶店で地震にあったときの様子を『震災日記より』にこう書き残しています。

「椅子に腰かけている両足の蹠(うら)を下から木槌(きづち)で急速に乱打するように感じた」

「丁度船に乗ったように、ゆたりゆたり揺れるという形容が適切である事を感じた。仰向(あおむ)いて会場の建築の揺れ工合を注意して見ると四、五秒ほどと思われる長い週期でみしみしみしみしと音を立てながら緩やかに揺れていた」

初期微動と主要動との時間差、揺れの長さ、長周期の揺れなど、震源から少し離れた場所での巨大地震の揺れの特徴を見事に表現しています。寺田の筆致は冷静で、最初の大きな揺れの後、同じ食卓にいた人たちは出口の方に駆け出したが、筋向いにいた中年の夫婦のうち夫人が「平然と(ビフテキの)肉片を口に運んでいた」と書いています。

* さらに寺田は振動が衰えてから、外の様子を見に出ようとしますが、喫茶店のボーイも一人残らず出てしまって勘定をすることができません。「そのうちにボーイの一人が帰って来たので勘定をすませた。ボーイがひどく丁寧に礼を云ったように記憶する」とも書いています。

この後、寺田は日本橋に出て昼食をとる予定でした。

「あの地震を体験し下谷の方から吹上げて来る土埃(つちほこ)りの臭を嗅いで大火を予想し東照宮の石燈籠のあの象棋(しょうぎ)倒しを眼前に見ても、それでもまだ昼飯のプログラムは帳消しにならずそのままになっていた。しかし弁天社務所の倒潰(とうかい)を見たとき初めてこれはいけないと思った、そうして始めて我家の事が少し気懸りになって来た」

と実感をつづります。

「無事な日の続いているうちに突然に起った著しい変化を充分にリアライズするには存外手数が掛かる」と、被災した後でも災害をちゃんと捉えるのが難しかったことを告白しています。

一方、後に中央気象台長を務めた気象学者の藤原咲平は当時、気象台の職員でしたが、発災後も気象台が火事になるとは思わず、警告を発しなかったことを反省した文章を雑誌『思想』に掲げています。藤原は揺れの後、水道管の破壊を予想して官舎の風呂おけなどにすべて水を張らせましたが、気象台は市街から離れているので、それ以上を考えませんでした。

* 藤原咲平は気象学者で、1941年に中央気象台台長となりました。戦後わずか1週間でラジオの天気予報を復活させ、気象事業の再建につとめました。作家の新田次郎はおいに当たります。

「自分は始めまさかと思うて居って其の為に困難に陥り大切な物も燃やして仕舞った。あんな時に落付いて居って火災に関する警告をいち早く発したならば多少の効果はあったかも知れぬと思うた。要するに知識なんてものは有った所で活用せなければ役に立たない」といった具合です。

被災した防災のキーパーソンとも言える2人でも、ただちに「リアライズ」できない災害の巨大さ。武村さん(本書『必ずくる震災で日本を終わらせないために。』の「2章 日本を終わらせないためにホンネで話した」で登場する、武村雅之名古屋大学教授)は、寺田や藤原の文章から「人間は予測が苦手」だと指摘します。私もつくづくそう思います。

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最終更新:4/21(日) 10:00
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