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『なつぞら』アニメーション時代考証・小田部羊一氏と東映動画のスゴい人々

4/22(月) 6:51配信

FRIDAY

第1週の平均視聴率22.1%と快調なスタートを切った連続テレビ小説『なつぞら』(NHK)。日本のアニメーションの勃興期を描く半年間の朝ドラは、「北海道・十勝編」、「東京・新宿編」、そして「アニメーション編」へと続く。ヒロイン奥原なつ(広瀬すず)がアニメーションの世界に飛び込み、「東洋動画」で働くのはまだ先だ。

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このドラマで「アニメーション時代考証」を務める小田部羊一氏に、ご自身が「東映動画」で経験したアニメーションの黎明期を語ってもらった。小田部氏は東映動画に早くして入社し、アニメーターとして過ごした。また「ヒロイン:奥原なつ」のモデル、ヒントとなった奥山玲子さんの夫でもある。

やがて、『アルプスの少女ハイジ』『母を訪ねて三千里』を創り上げ(小田部氏はキャラクターデザインと作画監督を担当し作品の質を保ち続けた)、ゲームの世界に転じて、任天堂で「スーパーマリオブラザーズ」や「ポケットモンスター」のキャラクターデザイン監修、アニメーション監修を務める事になる名匠が、当時は珍しかったアニメーションを作るスタジオ「東映動画」で新人時代をどう過ごしたのだろうか? そこは『なつぞら』の登場人物のヒントとなった凄い才能があふれる場所だった! 文中「※」は、本記事末に解説を設けています。


◆日本画からアニメーションの世界へ

小田部:当時、僕が通っていた東京藝術大学の日本画科って、ほとんど就職先がなかったんですよ。それがたまたま動画スタジオから募集があって。でも日本画科の人たちは基本的に絵描きを目指してる人が多いから、漫画やアニメなんか見たこともない。

僕は子供のころから漫画やアニメーションが好きで『白蛇伝』も観ていたんですよ。だからアニメーションといったら絵を描いて動かすもんだと思っていたので、当然のようにアニメーター志望で。

「東映動画から募集が来てるから受けようよ」と誘っても、ほとんど反応がなかったんですが、同級生の女性2人だけが受けてみようかしらって。日本画ですから筆で絵を描きます。アニメーションの背景画なら筆で描く仕事ですから。美術(背景画を描く職種)希望のその2人と一緒に受けに行きました。

ーー実技はあったんですか?

小田部:森康二※1さんが試験問題を用意してましたね。僕の場合は、丸太が転がってて少年が立ってる絵が一枚だけあって、この少年がその丸太を持って運ぶまでの、動きのキーポイントとなる絵を描きなさい、と。原画のテストですね。それとキャラクター・デザインのテスト。指定されたキャラクターのデザインとポーズの絵を描けと。かぐや姫があった気がする……。十二単衣的なものを描いた記憶があるんです。

実技の他に、国語、社会、数学、英語など学科試験もあったんですよ。試験会場は御茶ノ水の大学の校舎で受けました。「12月14日」という試験問題もありましたね。「忠臣蔵討ち入りの日」と書けましたけれど。東映の看板映画を観ているかどうかのテストだったのでしょう。

学科試験に合格して、京橋の東映本社で面接を受けました。大川社長※2は、ちょび髭でユニークな方で、「君」を「ちみぃ」っていうんです(笑)。その社長が試験官の一番真ん中に座っててね、

「ちみぃ、健康そうだね」

「はいっ!元気です!」

「漫画は好きかね?」

「はいっ!」

なんてやり取りをして。これはもう受かったと思いましたね。そしたら僕だけ落っこっちゃった(笑)。するとすぐにに二次募集があって、それに受かって採用されました。

ーー入社式はあったんですか?

小田部:入社式は4月2日だったのを覚えています。「エイプリルフールを外したんだ」と思って(笑)。アニメーターだけでも35人ほどいたのを覚えてます。仕上げ、撮影部、演出部、管理部とか事務系も含めて。かなり大勢でした。東京芸大、多摩美術大、武蔵野美大。あと女性は女子美(女子美術大学)、女子美短大(女子美術大学短期大学部)。そんな人たちがアニメーターとして採用されていました。

◆東映動画での会社生活

ーー新人の頃はどうでしたか?

小田部:試雇期間があって、養成期間が3ヵ月くらいあったんですよ。養成期間の間は先輩がついて指導されました。僕の場合は熊川正男※3さんっていう日動※4からやっておられた方が課題を出して、その通り鉛筆で描いてみるという。

ーー細かい話ですが、タイムシート※5の勉強ってどうされました?

小田部:東映動画の一番の特徴は、大川社長が言っていた「夢の工場」という言葉の通り、アニメーション制作に必要な全ての部署が、一つの場所にあったことです。ですからタイムシートなども、すぐそばに先輩がいるから聞けばいいし、教えてもらえる環境があった。だから仕事で初めて見たものでも、困ることはありませんでした。

ーー東映動画での毎日ってどんな感じでした?

小田部:会社は9時から5時まで。タイムカードがありました。給料制ですから残業のときは残業代が出てました。

ーー自分を振り返ると、新入社員の時は「昼食のタイミングいつ行けばいいんだろ? 先輩が行く前に行っていいのかな?」とか、変に気を使うことがあったのですが、小田部さんの新入社員時代は如何でしたか?

小田部:そういうのは全然なかったですね。「あ~昼だ~」って。昼食はパンを売りに来る業者がいてそれを買って食べたり、または東映の撮影所がすぐ隣にあって、そこの食堂で実写映画の人や俳優たちと一緒に食べたり。さっさと飯を喰ったあとは、キャッチボールやバドミントン、バレーなんかをしたりして昼休み休憩をとってました。

ーー社内恋愛とかはどうでしたか? 当時の東映動画はオープンな雰囲気だったのでしょうか?

小田部:オープンでしたね。誰と誰が付き合っているかはすぐわかりました。でもおおっぴらに手を組んだり、つないだりしていたのは、某氏くらいかなぁ(笑)。彼は当時仕上げの女性と付き合ってて、スタジオでもおおっぴらに手を組んだりつないだりしてて。

ーー当時の東映動画の方は、職場結婚の人が多かったですよね。やはり飲み会とかがきっかけですか?

小田部:職場結婚は確かに多かったですねぇ。飲み会だけじゃなくって、夏休みとかになると一緒に海に行ったり山に行ったり。部活動とかもあったし。

ーー小田部さんは部に入っていたんですか?

小田部:うん。茶道部。

ーー茶道部?

小田部:お菓子を食べたいから(笑)。教養室っていう広い畳部屋があったんですよ。そこにちゃんと茶道の先生を呼んできて、毎週1回、勤務終了後に部活動を行っていました。それが終わったら残業で仕事に戻る場合もあったり、そのまま帰ったりとか。部にはちゃんと会社から補助もあって、我々も会費をいくらか払ってました。

ーー部長とか会計とかがちゃんといたんですね。

小田部:もちろん。僕は会計をやりました!(笑)で、お菓子を買いに行ったりね。

ーーまたお菓子(笑)

小田部:そんなふうに忙しいながらも、毎日を楽しむこともやってましたね。

ーー当時は、日本中で組合活動、労働争議が盛んな時期でした。東映動画でも組合活動があったと、当時を記した本や関係者のインタビューで語られています。

小田部:東映動画は1回、労働組合を作ったんだけど、すぐ会社に潰されちゃってるんです。そういう事情があって2回目の結成は用心して、東映撮影所の労働組合の指導を受けたり、組合に入れる人を見極めながら準備してたみたい。

僕らはそんな時に入社したんです。で、僕には組合の誘いがなかった(笑)。同期の友人はわりとすぐに誘われてたみたいだけど。あとで聞いたら僕は最後までハッキリしない曖昧な態度に見えたらしく「どうも怪しい…」って(笑)。

当時の風潮もあり、僕らの動画時代を語るには労働組合運動が切り離せないないものがあるんですよね。奥山(玲子)も積極的に労働組合の活動をしていたし。彼女は最初から執行役員をやってましたよ。

ーー労働組合ではどういう活動が主だったんですか?

小田部:一番大きいのは賃金問題でしたね。あるいは福利厚生の充実とか。それと会社から押し付けるだけの企画ではなく、良い作品作りのために自分たちの希望を入れろみたいなことも要求してましたね。それまでオリジナル作品だったのが、テレビの時代になって原作ありのものばかりになってて。劇場長編も「A作」「B作」ってランク分けして、「B作」は予算もスケジュールも少なくしたり。

そのうち労働組合も力をつけて、ストライキを打つこともあった。すると会社はロックアウトに出て、門を閉めて全員をスタジオに入らせないようにしたんです。

それを阻止するために(労働組合の)執行員が何人かスタジオに立てこもって。そんな彼らに食料を届けるために、運動神経のいい月岡貞夫さんは高い壁をタタタっと登って、執行員たちが閉じこもってる教養室にお弁当をバーンと投げ込んで、素早く戻ってくる。それを見ている皆が「わ~っ!」と拍手したり。そういうこともありました。

◆東映動画という学校

小田部:今でも当時のメンバーで集まると「東映動画はまるで学校だったよね」って言ってるんです。現場で教えてもらえる、現場で覚える…。東映動画はそういう場所でした。

2年か3年くらい動画をやっていると原画にピックアップしてくれる。テストがあるわけでもなく、見ればだいたい実力がわかるわけですよ。

「コイツは描けるようになってる」ってね。

そうすると自然に原画になってみないか、というような話がきて。

僕は『わんぱく王子の大蛇退治』※6のときに月岡貞夫※7さん、彦根範夫※8さん、竹内留吉※9さんと一緒に原画※10になりました。

色んな人がいたんです。奥山は「童話」と「動画」を間違って東映動画に入っちゃったでしょ? 他にも漫画は嫌いだけど給料が出るからやってる人とか、アニメーションの絵がうまく描けなくて、辞めて画家になったら世界的に有名になった人がいたりとか、公務員から転職した人もいたし、学歴も関係なく、みんながみんなアニメーションが好き、というのではなく、色んな人が集まってて面白かったですね。


◆インタビューを終えて 日本初の大規模なアニメーション製作会社

日本のアニメーションの黎明期でもある様子を伺うとき、得てして当時のスタッフのアニメーション制作者としての試行錯誤の日々に目が向きがちです。

しかし会社での仕事という視点で見ると、我々と同じような日々の会社生活という側面もあったわけで、今回のインタビューでは新入社員として東映動画に入社された小田部さんにその辺を意識的に聞いてみました。ちょっと違った角度から、日本のアニメーションの歴史を感じてもらえたらと思います。

小田部さんの貴重で楽しい優しい口調のお話は、奥山さんのこと、東映動画での生活を経て、いよいよ「奥山さんと小田部さん」へと続きます。


◆人物・用語の説明
※1 森康二(1925~1992):日本のアニメーションの草分け的存在で現在の日本のアニメーションのスタイルを確立した1人。東映動画初の長編アニメーション映画『白蛇伝』(1958)では大工原章と共に原画を担当。小田部羊一、高畑勲、宮崎駿ら多くの人材を育成し、多大な影響を与えている。『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)では日本で初めて作画監督を務めた。代表作:『長靴をはいた猫』(作画監督)、『山ねずみロッキーチャック』(作画監督)、『フランダースの犬』 (キャラクターデザイン)など。

※2 大川博(1896~1971):鉄道省事務次官、東京急行電鉄、プロ野球のオーナーを経て東映の社長となり、1956年、「夢の工場」を目指して東映動画を設立した。

※3 熊川正男 (1918~2008):日本のアニメーションの草分けの1人。東映動画初期には数少ない原画マンとして新人養成を行う。代表作:『宇宙パトロール ホッパ』(作画監督)

※4 日動:日本動画株式会社、後に日動映画株式会社。日本アニメーションの父と称される政岡憲三などが在籍していた日本最初期のアニメーション制作会社。東映動画は日動を買収し発足した。

※5 タイムシート:1秒間は24コマで構成されている。タイムシートとは、時間軸に沿って何コマ目にどういう絵を置くか、どういう風に撮影するかをアニメーターが指示する撮影伝票を指す。音楽を演奏する時の「楽譜」のようなもので、アニメーション制作の工程において重要な役割を持つ。

※6 わんぱく王子の大蛇退治:1963年公開、日本神話をもとに主人公スサノオの冒険の旅を描く日本的なファンタジー映画。音楽は『ゴジラ』の伊福部昭。アニメーターではない演出家主導の監督体制(監督:芹川有吾)、画面の統一を図るための作画監督制の導入(原画(作画)監督:森康二)など、制作面においても現在の日本のアニメーションの基礎を作り出している。日本のアニメーション史を語る上で重要な作品。

※7 月岡貞夫(1939~):手塚治虫が初めて東映動画のアニメーション映画に関わった時、多忙な手塚の代役として東映動画に派遣されそのまま東映動画に入社。早熟な才能で天才と言われた。東映動画初のTVアニメシリーズ『狼少年ケン』を監督(キャラクターデザイン、作画監督も)。東映動画退社後は数多くのCMや短編制作を手がけている。

※8 彦根範夫(1936~):東京藝術大学美術学部工芸科卒業。東映動画には小田部羊一氏と同期入社。アニメーターとして東映動画、虫プロ等で数々の作品に参加後「ひこねスタジオ」を設立し、ひこねのりお名義で活動。明治製菓CM「カールおじさん」のキャラクターデザインやサントリーCMのキャラクターの映画化『ペンギンズ・メモリー 幸福物語』監督など多方面で活躍。

※9 竹内留吉(~2001):漫画家白土三平の父、画家の岡本唐貴から絵画の手ほどきを受け東映動画に1959年入社。小田部氏と同期入社となる。東映動画退社後は有限会社「菁画舎」を立ち上げ『魔法使いサリー』『アタックNo.1』『Dr.スランプ アラレちゃん 』『ドラゴン・ボール』『ONE PIECE』などの作画監督を務め長く活躍した。

※10 原画:スタッフ表記上は当時の給料の等級制度の関係もあり全員「動画」となっている。しかし小田部氏は原画だけではなく主人公スサノオが乗る天馬「アメノハヤコマ」のデザインも手がけていた。

◆小田部羊一(こたべ よういち)プロフィール
1936年台湾台北市生まれ。1959年、東京藝術大学美術学部日本画科卒業後、東映動画株式会社(現:東映アニメーション)へ入社。『わんぱく王子の大蛇退治』(1963)『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968)『長靴をはいた猫』(1969)『どうぶつ宝島』(1971)などの劇場長編映画で活躍。『空飛ぶゆうれい船』(1969)で初の劇場作品作画監督。東映動画退社後、高畑勲、宮崎駿と共にメインスタッフとして『パンダコパンダ』(1972)『アルプスの少女ハイジ』(1974)『母をたずねて三千里』(1976)のキャラクターデザイン・作画監督を担当。
その他劇場作品の『龍の子太郎』(1979)、『じゃりン子チエ 劇場版』(1981)でキャラクターデザイン・作画監督。
1985年、開発アドバイザーとして任天堂(株)に入社。「スーパーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」シリーズなどのキャラクターデザインおよびアニメーション映像の監修。2007年任天堂退社後フリー。2015年度第19回文化庁メディア 芸術祭で功労賞を受賞。


◆奥山玲子(おくやま れいこ)プロフィール
1935年宮城県仙台市生まれ。宮城学院高等学校卒業。東北大学教育学部中退。1958年東映動画(現・東映アニメーション)入社。『白蛇伝』(動画)、『わんぱく王子の大蛇退治』(原画)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(原画)、『アンデルセン童話 人魚姫』(作画監督)、『龍の子太郎』(作画監督補)、『注文の多い料理店』(原画)、『冬の日』(絵コンテ・原画)。1985年より東京デザイナー学院アニメーション科講師。1988年より銅版画制作。2007年、逝去。


取材・構成・文:藤田健次…(ふじたけんじ)(株)ワンビリング代表取締役。電子書籍アニメ原画集・資料集E-SAKUGAシリーズを企画・制作。アニメ・アーカイブのデジタルでの利活用を提案・プロデュースしている。東映アニメーション60周年記念ドキュメント「僕とアニメと大泉スタジオ」、アニメビジネス情報番組「ジャパコンTV」(BSフジ)共に企画・監修。

企画協力:木川明彦…(きかわあきひこ)(株)ジェネット代表取締役。アニメ、特撮、SF、ゲーム関連の雑誌・書籍の企画編集に関わる。特に設定考察、図解にこだわる 自称「図解博士」。近著に小説『高速バスター ミナル』(スペースシャワーネットワーク)がある。

最終更新:4/22(月) 8:40
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