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河野博文 ハムの左腕、“げんちゃん”最大の武器は?/プロ野球1980年代の名選手

4/23(火) 16:01配信

週刊ベースボールONLINE

1980年代。巨人戦テレビ中継が歴代最高を叩き出し、ライバルの阪神はフィーバーに沸き、一方のパ・リーグも西武を中心に新たな時代へと突入しつつあった。時代も昭和から平成へ。激動の時代でもあったが、底抜けに明るい時代でもあった。そんな華やかな10年間に活躍した名選手たちを振り返っていく。

即戦力左腕としてドラフト1位入団

 高知の明徳高では、その怪力から“牛”と呼ばれていたという。日本ハム入団後のニックネームは“げんちゃん”。なんでも「原人に似ているから」ということだそうで、あまりうれしくない由来に思えるのだが、本人は大いに気に入っていて、球界を離れてからも“げんちゃん”を看板に掲げて活躍を続けている。貴重な左腕として1980年代後半の日本ハムで投げまくった河野博文だ。

 明徳高から駒大へ進み、エースとして東都大学リーグ通算15勝、防御率1.91。3年の秋には無傷の6勝で防御率0.90、4年の秋にも無傷の4勝、防御率1.40で2季とも駒大を優勝に導いて、最優秀投手、ベストナインに。そのまま即戦力左腕と期待されてドラフト1位で85年に日本ハムへ入団した。

 その4年前、Vイヤーの81年、日本ハムは確かに“左腕王国”だった。だが、83年オフにクローザーの江夏豊は西武へ移籍し、先発の支柱だった高橋一三は現役引退。80年に先発の投手タイトルを総ナメにした木田勇は故障に苦しめられ、86年オフに大洋へ。81年に無傷の15勝でリーグ優勝の立役者となった間柴茂有だけは日本ハムに残っていたが、当時の奇跡は再現できず、低迷を続けていた。

 そんな日本ハムにあって期待どおり即戦力にはなったものの、81年のリーグ優勝から徐々に失速。84年には最下位に沈んだ日本ハムにあって、36試合に登板したものの8勝13敗と負け越し。翌86年も同じく36試合に投げまくったが1勝10敗と、さらに大きく負け越してしまう。

 卓越した制球力やスピードがあるわけでもなく、ウイニングショットと呼べるような変化球もなかった。それでも、先発に、リリーフにと投げまくって、チームを支え続ける。その奮闘が報われたのが88年だった。その88年に首位打者となったロッテの高沢秀昭は、「内角へドンと来る真っすぐが印象的。外角からのカーブなど、内角へ来る球はキレが良かった」と振り返る一方で、「何よりスタミナと勢いがすごかった」と証言している。最大の武器は「登板間隔が空くと乱れるクセがある」と言われるほどのスタミナと、のちの巨人時代に長嶋茂雄監督も「顔」と独特な表現で評価した思い切りの良さだった。

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最終更新:4/24(水) 10:43
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