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浦賀水道の海上要塞「第二海堡」を訪ねて

4/23(火) 12:01配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

三笠、猿島を横目に見つつ、荒波を越えて

小雨が降る、あいにくの空模様。集合場所である、横須賀の記念艦「三笠」のある三笠公園そばの桟橋へ。
早速、船に乗り込み、三笠を左手に見ながら出港。浦賀水道にある海上要塞、「東の軍艦島」ともいわれる第二海堡へと向かう。
出発してすぐ右手に見えてくる猿島も、第二海堡と同じく、首都防衛の要塞だった島だ。
雲行きはさらに怪しくなってくる。猿島を過ぎた辺りから、荒波が船を洗うようになり、揺れも激しくなってきた。
その荒波の中を約30分、一日500隻以上もの船が行き交う浦賀水道を横切る。
大型船を避けながら、ジグザクに航行、前方にコンクリートで護岸された第二海堡が姿を現わした。島の中ほどには、灯台らしきものも見える。
荒波に揉まれながらも、ようやく第二海堡に接岸、上陸するやいなや、強い風と横なぐりの雨が一行を襲う。
桟橋で案内役の方から渡されたのは、イヤホンガイドの機器。雨風の中でもこれがあれば、解説を聴くことができるわけだ。

25年もの大工事の末に…

この第二海堡、明治時代から大正時代にかけて造られた、人工の島である。
何もない東京湾のど真ん中に島を造る。今であれば、機械を駆使して難なく造れるかもしれないが、明治時代にあっては、ほとんどが人力だ。
船に石を載せて運んでは、海に投げ込む、これを何度も何度も繰り返すことによって、島を造る。気の遠くなる作業である。
当時、浦賀水道の両岸に備え付けられた砲台の射程では、この水道の真ん中までカバーすることができなかった。
そこで人工の島を造り、それを要塞化することになったのだ。
海堡は第一から第三まで造られた。
そのうち第三海堡は、完成から2年後の大正12年(1923)の関東大震災によって甚大な被害を受け、平成になってから撤去されている。
国土交通省の資料によると、第二海堡が最も大きく、41,000平方メートルと第一・第三の二倍近くだ。
明治22年(1889)に着工し、大正3年(1914)に竣工。約25年間もの大工事だった。

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最終更新:4/23(火) 12:16
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