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私の台湾研究人生:研究事始めの頃

4/25(木) 15:01配信

nippon.com

若林 正丈

1949年と72年

私は1949年生まれである。そして72年に大学院に合格して学問研究の道に入った。ちなみに同じ年に結婚した。

1949年は言わずと知れた中華人民共和国が建国の年であり、また蒋介石・中国国民党の中華民国が台湾に逃げ込んだ年でもある。つまり、結果的に中国を名乗る二つの政治体が台湾海峡両岸に対峙(たいじ)することになった年数と私の年齢は同じである。

1972年もまた言わずと知れたニクソン米大統領が訪中してかの「上海コミュニケ」が発出された年、そのあおりで当時の田中角栄首相と大平正芳外相が訪中して日中の国交樹立が行われ、台湾の中華民国と断交した年である。その前年に中華民国は国連から追われている。アメリカとの断交は79年にずれ込んだが、以後台湾の中華民国は、国連安保理常任理事国でもあった非承認国家という例外的な国際身分となって今日に至っている。こうした状況が継続する年数と私の台湾研究者としての活動年数もほぼ同じなわけである。来たる2022年に日台断交が半世紀を迎えれば、私たち夫婦は金婚式を迎えることになる。

私と台湾とはこんな因縁である。台湾を研究対象としているのは、個人的に台湾に係累がいるのだろうとよく言われた。一度などは台湾の地方都市で講演した後、新聞に「若林は母親が台湾人でうんぬん」と書かれたこともある。そういうことは一切無い。記者が勝手に事実を作って書く「マイ・ペーパー」現象は、30年以上たった今も存在しているのは、嘆かわしいことだ。

「台湾」にスイッチが入った頃

では、何があって台湾研究などを始めたのか。

自身の「無知」を知るのが学問の始めだとするなら、私の台湾研究もそうだった。東大教養学部教養学科学部生だった頃、当時アジア経済研究所の研究員だった(のちに立教大学教授)故戴國キ先生(1931-2001)から台湾の作家・呉濁流(1900-1976)の作品『アジアの孤児』を紹介されて読んで衝撃を受けた。内容は、作者の分身とおぼしき地主の息子で植民地教育を受けたインテリである主人公・胡太明の苦悩に満ちた生涯を描いたもので、日本統治下の台湾にあっては日本人への同化を迫られながら日本人からは差別され、出口を求めて中国に渡れば台湾人と知れると「日本の走狗(そうく)」と差別される台湾人の身の上を指した表題が、作者が物故した後の1980年代に入って、台湾人の国際的身分を象徴する言葉として盛んに取り沙汰されたものであった。

だが、それは後のことである。当時の私にとっては、この作品の衝撃はその内容よりは、これを読んで「台湾」について「無知」に気付いたことの方が大きかった。卒業論文を考え始める時期だったこともあり、急に目に映る文字の中で「台湾」の二文字に過敏となった。70年代前半は日本の新聞には「台湾」の二文字はめったに出ない時代だった。それで新聞紙面の「台所」という文字にまで反応している自分に気付いて何度も苦笑いした。「台湾」への関心にスイッチが入ってしまったのだった。

ただ、なぜ当時新聞紙面には「台湾」の二文字が希薄だったのか。この時期には国交樹立と断交のワンセットでもう問題は済んだというムードがあったのではないか、とも後々思った。しかし、これもきちんとした検証が必要だ。そもそも、戦後の日本がどのように台湾を見たのか、というよりはなぜ台湾をあまり見ないようになったのかは、恐らく日本の植民地帝国のいわば「脱帝国化」にかかわる問題である。これまで自分でもしっかりこの問題に取り組めて来ていないのは、いつも自分の力の限界を感じさせる問題領域だった。

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最終更新:4/25(木) 17:01
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