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【連載 名力士たちの『開眼』】横綱・旭富士正也編 捨て身になってかかった人間の強さ――[その3]

4/26(金) 12:06配信

ベースボール・マガジン社WEB

 退院から間もなくの昭和61年(1986)名古屋場所初日、10連敗中の大乃国戦が目前に控えていた。しかし、ここであっさり兜を脱いでは永久に負け犬になる。せめてかなわぬまでも、一度ぐらいは大乃国にヒヤリとさせてやろう。頼りはこのライバルに対する、ただでは引き下がりたくない、という執念だけだ。旭富士はこう腹をくくると、痩せこけた体を一つ、パチンとたたいて土俵に上がった。

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

【前回のあらすじ】三役に定着した旭富士に、大乃国というライバルが現れた。マスコミに「稽古好きの大乃国、稽古嫌いの旭富士」というレッテルを貼られたが、それは旭富士の演出。巨漢・大乃国へのライバル心から体重増に励むが、皮肉にも師匠と同じ膵臓炎にかかる――

捨て身になってライバル撃破

 人間の体というのは、開き直ると意外に動くものである。最初から勝ち負けを度外視し、相手をあわてふためかせることだけを目指していた旭富士は、ある意味で気楽なもの。行司の軍配が返ると、旭富士はまるでそれまでの対戦とは別人のように、のびのびと動き回り、先手、先手と攻めた。これには旭富士料理に絶大の自信を持っていた大乃国もすっかり戸惑い、オタオタ。そして、ついに思わず目をこすりたくなるような出来事が起こった。得意の右を深く差した旭富士が、小さなスキをついて下手投げを打つと、体調が万全のときでも決してこの投げを食わない大乃国の200キロの巨体がグラっと傾き、やがてテレビのスローモーションでも見ているようにゆっくり横転したのだ。

 信じられないような結末。捨て身になってかかった人間がどんなに怖いか。狐に鼻をつままれた思いで花道を引き揚げながら、このとき、旭富士は初めて知ったのである。

 この年の名古屋場所の初日は、奇しくも旭富士の誕生日の、7月6日だった。それは、これでもか、これでもか、と試練を与え続けた神からの無上のプレゼントだった。

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最終更新:4/26(金) 12:06
ベースボール・マガジン社WEB

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