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昭和の戦争は避けられなかったのか? 永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想

4/26(金) 12:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

次の大戦に備えて……満蒙領有論の登場

もっとも、政党政治側も、戦争が起こり、国家総力戦になる可能性をまったく考えていなかったわけではない。その点は当時、陸軍を主導していた宇垣派も同様だった。
長期の国家総力戦になった場合、日本にとって大きな問題となるのが、資源の確保だ。
宇垣派は、戦争の際には、日本─朝鮮─満洲とで可能な限り資源を自給し、足りない分は米英から輸入しようと考えていた。だからこそ、両国との協調を重視したのである。
それに対して永田は、資源の面で米英に依存することに批判的であった。米英からの輸入を前提にすると、両国の動向によって、国策が左右されてしまうからである。
では、永田は資源をどう確保するつもりだったのか。重要な軍需資源を調査すると、中国の華北と華中を押さえれば、だいたい4年間は自給自足できるという計算になった。
永田は、日本が権益を持つ満洲を、中国での資源確保のための橋頭保にしようと企図した。そして彼の周辺から「満蒙領有論」という構想が出てくるのである。
協調外交で大戦を防ごうとする政党政治と宇垣派に対して、永田は「大戦不可避」という立場から、構想を練っていたと言えよう。
なお、満蒙領有論に関していうと、昭和6年(1931)に陸軍が引き起こした満洲事変は、昭和4年(1929)に始まった世界恐慌から脱するためのものとして語られる。
実際、事変を主導した石原莞爾も、それに近いことを書き残している。しかし石原は永田と同じ一夕会員で、考えも近く、恐慌以前から満蒙領有を主張していた。
つまり、永田と石原も、世界恐慌以前から満蒙領有計画を温めていたのであり、世界恐慌は、その計画を実行するための好機として捉えられたのである。
現地で石原が主導し、それに連携して、陸軍中央で永田らが後押しする。それこそが、満洲事変の実態であった。
満洲事変は、陸軍内の権力転換ももたらした。昭和6年12月、犬養毅内閣の成立に伴い、一夕会が推す荒木貞夫が陸軍大臣となり、宇垣派は陸軍中央から一掃される。
やがて、一夕会は統制派と皇道派に分かれ、昭和11年(1936)の二・二六事件後は、統制派が陸軍中央を押さえ、彼らが日本を動かしていくこととなる。

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最終更新:4/26(金) 12:45
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