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昭和の戦争は避けられなかったのか? 永田鉄山、石原莞爾、武藤章…陸軍の戦略構想

4/26(金) 12:10配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

動き出したドイツを見た日本は……

満洲事変後、陸軍は一気に中国に進出していったかのように見えるが、それは違う。昭和8年(1933)に塘沽停戦協定が結ばれ、日中関係はひとまず落ち着きを見せる。
ところが昭和10年(1935)8月、陸軍は「華北分離工作」に着手する。これは永田の構想に基づくもので、華北五省に国民政府から独立した親日的地方政権をつくり、資源獲得のため日本の影響下に置こうとしたのだ。
この工作は、ドイツの動きに影響されたものであろう。工作が始まる直前の同年3月、ドイツが再軍備宣言をし、ヴェルサイユ条約を破棄。ヴェルサイユ体制は崩壊し、ヨーロッパで緊張が高まっていたのである。
陸軍は一方で、塘沽協定後、国際的配慮から中国での動きに慎重だったが、国民政府の排日姿勢から、資源確保が困難と判断する。
そして、近い将来の大戦の可能性を踏まえ、国家総力戦に対応するための資源確保として、華北分離工作に動いていったのである。
ところが同年8月、永田が刺殺され、石原莞爾の発言力が大きくなる。すると昭和12年(1937)1月、石原は華北分離工作の中止を決定する。
その最大の要因は、ソ連にあった。当時、極東ソ連軍の増強により、極東におけるソ連と日本の軍事バランスは著しく崩れていた。
石原は、ソ連が旧勢力圏だった北部満洲の回収に出ることを危惧した。このまま華北分離工作を進めれば、中国だけでなく、それに肩入れする米英との関係も悪化してしまう。ソ連と衝突した際、米英からの資源供給が必要であった。
だからこそ石原は、工作を中止したのである。そして、5年程度は政治的にも軍事的にも安定を保ち、ソ満国境における戦備を整えなければならないと考えた。
この工作中止に先立つ昭和11年11月、日独防共協定が結ばれている。これは実は、石原が主導したものであり、その本質はドイツにより背後からソ連を牽制させることにあった。つまり、対米英を意識した日独伊三国同盟とは、狙いがまったく異なる。
そもそも石原は、ドイツと組んで世界大戦を戦おうとしたわけではない。彼は、その「世界最終戦論」で、次の欧州大戦の後に、日米による世界最終戦争が起こると想定していた。そのため、ヨーロッパでの次期大戦には介入せず、アジアの指導権を握り、最終戦争に備えるべきと考えていたのである。
しかし石原の構想は、昭和12年7月の盧溝橋事件によって崩れていく。

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最終更新:4/26(金) 12:45
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