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麹町中の工藤勇一校長と対談して考えたこと

4/27(土) 8:06配信

教員養成セミナー

学校はなぜ「前例」にとらわれるのか?

■ 「手段の目的化」が起こりやすい学校
 先日、ベストセラーになった『学校の「当たり前」をやめた。』(刊・時事通信社)でも知られる、東京都千代田区麹町中学校の工藤勇一校長と対談をさせていただきました。

 本のタイトル通り、麹町中学校は、宿題の廃止、定期テストの廃止(代わりに、単元ごとのテストや複数回受け直せる実力テスト等の導入)、固定担任制から全員担任制への移行、生徒たちだけで企画する学校行事など、これまでの学校の「当たり前」を問い直し、ラディカルな学校改革を実行してきました。

 工藤校長が貫かれているのは、徹底した「目的思考」です。「これは一体何のためにしているのか?」「学校教育の目的は何か?」。この“そもそも”の目的を常に問い直し続けることで、では学校は何をすべきか、また何をすべきでないかがクリアに見えてくるというのです。

 学校というのは、しばしば前例主義がはびこり、「これは一体何のためにしているのか?」が省みられなくなってしまうところです。毎年、何月に体育祭をしているから今年もやる。合唱コンクールは、先生の与えた課題曲に一致団結して取り組むもの。スカート丈は膝下何センチ……。先生も生徒も、日々のルーティンワークや無数の決まりごとに、まるでベルトコンベヤーに乗って運ばれていくように従い続けているのです。

 いわゆる手段の目的化というやつです。何のために体育祭をするのかが問われることなく、体育祭を開催することが目的化してしまう。何のための校則かが問われることなく、校則を守らせることそれ自体が目的化してしまうのです。

 だから、常に“そもそも”の目的に立ち戻り、その上位目的の合意形成を図ることで、具体的に何をすべきかを対話を通して決めていく。これが、麹町中学校で日々行われていることなのです。


■ 学校は「自由」を実現するためのもの
 私もまた、教育哲学者として、これまで全く同じことを言い続けてきました。「そもそも学校は何のために存在しているのか?」。私たちは常にその本質に立ち戻り、日々の教育実践を振り返り続ける必要があるのだと。

 この連載でもしばしば言ってきたことですが、学校は、すべての子どもたちが「自由」に、つまり生きたいように生きられるための力を必ず育むために存在しています。と同時に、その「自由」を相互に承認し合う感度(価値観・感受性)、そしてそれを調整し合うための力を育むために存在しているのです。

 とすれば、教育行政も学校も先生も、常に立ち戻るべきは、「この実践は本当に子どもたちの『自由の相互承認』の感度を育めているのだろうか?」「この実践は、本当に子どもたちが『自由』になるための力を育めているのだろうか?」という問いになるはずです。

 でも多くの学校では、そのような問い直しの機会が持たれることがほとんどありません。決められた勉強をさせ、テストをし、点数をつけること自体が目的化してしまう。それが本当に「自由」になるための学びになっているのか、問い直されることのないままに。あるいは、体育祭や合唱コンクールなどで、過剰なまでの一致団結を求める。それが本当に「自由」や「自由の相互承認」のために必要なことなのか問い直されることのないまま、一致団結すること自体が目的になってしまっているのです。


■ 前例主義から脱却するために
以上のような学校の前例主義や「当たり前」から脱却するために、私たちには一体何ができるでしょうか?

 一に対話、二に対話、三に対話。そう、訴えたいと思います。

 ただしそれは、単なるおしゃべりや愚痴の言い合いではありません。先ほども言ったように、自分たちの学校や実践が、本当に子どもたちの「自由の相互承認」の感度を育み、また「自由」になるための力を育めているのか、とことん問い直し合う対話の機会をしっかりと持つのです。

 日本の学校には、総じてこの対話の文化が欠落している傾向があります。ですから、例えばせっかく校内研修をやるのであれば、こうした“そもそも”を問い合う機会を、最低でも1学期に1度は意識的に作りたいものだと私は思います。

 自校の先生同士だけでやるのは、気恥ずかしいということもあるかもしれません。その場合は、外部講師を招いてファシリテート(舵取りをすること)してもらってもいいでしょう。「ペアインタビュー」や「ワールドカフェ」、「オープン・スペース・テクノロジー(OST)」など、“そもそも”を問い、さらにはお互いの“根っこ”を知り合い掘り下げ合うような手法はたくさんあります。

 良質の本や映像などを共有し、みんなで対話するのもいいでしょう。わたしのオススメの本は、先述した『学校の「当たり前」をやめた。』や、岩瀬直樹+寺中祥吾『せんせいのつくり方』などです。「そもそも教師は何のために存在しているのか?」ということを、改めて深く考えさせてくれるはずです。

 別の見方をすれば、これは先生の仕事をその本来の職務に集中させるための対話だとも言えます。あれもこれもと膨れ上がった学校の業務を精査して、本当にやるべきことは何なのかを明確にする作業でもあるのです。「そもそもこれは何のため?」を話し合う職員会議や校内研修は、長い目で見て、先生の負担を減らすことにつながるはずです。こうした観点からのオススメの本として、妹尾昌俊『変わる学校、変わらない学校』や『「先生が忙しすぎる」をあきらめない』をご紹介したいと思います。


■ 子どもたちも共に対話を
 「そもそもこれは何のため?」の対話は、先生だけでなく、子どもたちと一緒にやってもいいでしょう。いえ、むしろ、やるべきだと思います。子どもたちは未来の市民社会の担い手、作り手です。何でもかんでも先生が決めて、自己選択、自己決定や、コミュニティを共に作り合う機会を奪ってはなりません。

 子どもたちが、学校を共に作り合う経験を通して、社会を共に作り合うとはどういうことかを学ぶ。そんな機会を、私たちはしっかりと保障すべきなのです。


苫野一徳
熊本大学教育学部准教授 軽井沢風越学園設立準備財団理事
1980年生まれ。兵庫県出身。哲学者・教育学者。早稲田大学大学院教育学研究科博士課程修了。博士(教育学)。著書『はじめての哲学的思考』『教育の力』など多数。

※『月刊教員養成セミナー 2019年6月号』
「哲学する教育学者 苫野一徳の教育探求コラム  ―教師の卵に考えて欲しいこと」より

最終更新:5/10(金) 16:02
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