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激動の昭和史を生きた昭和天皇の苦悩

4/29(月) 12:12配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

現在発売中の月刊誌『歴史街道』2019年5月号では、ノンフィクション作家の保阪正康氏が、昭和史を読み解くための方法について、様々な視点から語っている。そのうち、近代日本における昭和の歴史的意味、昭和史を読み解くための3つのキーワードについて、紹介しよう。

保阪正康(ノンフィクション作家)
PROFILE 昭和14年(1939)生まれ、 北海道出身。同志社大学文学部卒。平成16年 (2004)、昭和史の研究により、菊池寛賞を受賞。 著書に『昭和史七つの謎』『昭和史のかたち』 『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞受賞)ほか。

激動の昭和史を生きた昭和天皇の苦悩

視点をどこに置くかによって変わりますが、昭和という時代は三つに分けられます。
まず、昭和元年から20年8月までが昭和前期。この時期に、明治、大正から続いてきた軍事主導体制の流れが終わりました。
次に、アメリカの軍艦ミズーリで降伏文書に調印した昭和20年9月2日から、占領の終わる27年(1952)4月28日までが昭和中期。これは国家主権を失っていた時期です。
そして、サンフランシスコ講和条約が発効した昭和27年4月28日から、昭和天皇が崩御した64年1月7日までが昭和後期。独立を回復して、民主主義体制が築かれていく時期です。
昭和史で特徴的なのは、昭和前期とそれ以後で、日本の姿が大きく変わったことです。
歴史を理解するときに「その時代のキーワード」を見るとわかりやすいので、「違う顔の昭和」を示すキーワードとして、「天皇」「軍事」「国民」の三つを考えてみましょう。
昭和前期の天皇は軍事主導体制の神格化された存在でしたが、戦後は民主主義体制下で人間天皇、象徴天皇という存在になった。
昭和前期までの日本は軍事で一等国になり、戦後は戦争と距離の遠い所にある非軍事を追求する国になった。
それから、天皇を主権者とする大日本帝国憲法では、国民は「臣民」という言葉で表現され、天皇の赤子という位置づけでしたが、戦後は国民が市民(シビリアン)という存在になった。
同じ時代に、これほど両極端な体験をした国は珍しく、「二重性」は昭和の特徴の一つなのです。
ところで、先に挙げた三つのキーワードのうちで、「天皇」は昭和史を理解するときに重要度が高いと思います。「天皇」を緻密に見ていくことによって、いろいろと見えてくるものがあるのです。
たとえば、昭和天皇には、明治天皇、大正天皇と違うところがいくつかありました。
その一つは教育です。昭和天皇は大正3年(1914)から10年(1921)まで、帝王学を、御学問所で学びました。明治天皇、大正天皇はともに、その場その場での教育しか受けていません。昭和天皇だけが、体系づくられた帝王学と軍事の知識を学んだのです。
また、「天皇」という立場との向き合い方が、昭和中期以降の昭和天皇は、明治天皇、大正天皇とまったく違っています。
戦後の記者会見で、昭和天皇は明治天皇のことは語ったけれど、大正天皇のことを語りませんでした。
明治天皇は、軍事主導体制で一等国になろうとする時代の天皇です。大正天皇はその体制を引き継ぎましたが、漢詩には天才的な能力があり、どちらかというと文化的な天皇でした。軍事は嫌で、陸軍の大演習にも行きたくなくてしようがなかったといわれます。
昭和天皇が模範としたのは、大正天皇ではなく、明治天皇だった。これは明治以来の軍事主導体制を引き継ぐことを、意識していたからだと思われます。
しかし、昭和20年の敗戦で、軍事主導体制が崩壊してしまった。そのとき、昭和天皇は新しい天皇像をつくらなければいけなくなり、それを模索したと思います。
天皇像を自らつくる。そこが、明治天皇、大正天皇との大きな違いですが、それは「13歳から19歳にかけて身につけた帝王学」をどう変えていくかということでもあり、昭和天皇の人生における大きな戦いだったと思います。

※本稿は、『歴史街道』2019年5月号 特集《昭和史の本質》掲載記事より、一部を抜粋編集したものです。

最終更新:4/29(月) 12:12
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