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敵味方は一瞬で変わる。生き馬の目を抜いた徳川家康のやり方

4/30(火) 12:00配信

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情報あふれる現代こそ、「プロパガンダ」の技術が必要だ。戦国時代の日本人に「騙されないコツ」「生き残るコツ」を学べ。『プロパガンダで読み解く日本の真実』を上梓した倉山満氏が解説する。徳川家康のやり方をひもとく。

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■証拠がない? 家康と信長の清州会談

  明確な展望がないときは、耐えてチャンスを待つ。永禄3(1560)年、桶狭間で今川義元は頓死しました。重臣達も軒並み討ち死にです。

 義元死後の今川家は、息子の氏真が継ぎます。氏真は、気位が高いわりに無能で、最も得意なのは蹴鞠。平安時代の公家ならともかく、戦国大名には向きません。家康は、元康を名乗っていましたが、家康と改名します。今川家への絶縁をPRしたのです。そして、義元を倒して勢いに乗る織田信長との同盟に走ります。織徳同盟です。

 その後、家康は、外交的駆け引きで、人質だった築山殿と跡取り息子の信康を取り返しました。同盟を切るという決断は、人質を殺される覚悟でやるわけですから大変です。当主がいきなり同盟相手を裏切っても、下がついてくるとは限らないですし、それまでの利害関係も調整しなければなりません。

 松平家は織田家と同盟を結ぶために、桶狭間の戦い以後もしばらくは今川家についてわざと小競り合いをたくさんやり、信長に実力を認めさせてから清洲に赴き対等な同盟を結んだ、とはよく言われることです。しかし、これまた、三河武士団のプロパガンダのようです。

 平野明夫「信長・信玄・謙信を相手に独自外交を展開した家康」(『家康研究の最前線』所収、洋泉社新書、2016年)によれば、信長と家康の清州城での同盟締結を記している文書で最も古いのは貞享3(1686)年の『武徳大成記』で、比較的早い時期の成立で一定度の信頼性がある『信長公記』には記述がなく、『松平記』『三河物語』にも記述されていないことはもちろん、同時代の作成文書、日記や記録にも見えません。そのため、平野氏は《史料的には家康が清洲へ赴いたことは証明できない。史料がないことと、事実としてないこととは、イコールではない。しかし、事実を疑わざるをえない史料状況であることはまちがいない》としています。ちなみに記述のある『武徳大成記』は、江戸幕府第五代将軍徳川綱吉の命で老中阿部正武が監修した本です。わからないことは「わからない」として安易な結論を下さないことも、惑わされないコツです。

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最終更新:4/30(火) 12:00
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