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ゲーム研究なんかするやつはクズだ…日本のAI開発が遅れた背景

4/30(火) 10:00配信

幻冬舎ゴールドオンライン

世界的に過熱するAI開発競争。そのなかで日本のAI開発は周回遅れになっていると度々指摘されてきました。本連載は、囲碁AIの研究開発を行う福原智氏の著書『テクノロジー・ファースト』(朝日新聞出版)から一部を抜粋し、筆者が囲碁AI開発を続けるなかで感じた国内AI業界が抱える問題点について紹介していきます。今回は囲碁と関係の深い日本が、囲碁AI研究で米国に遅れにとった理由について考えていきます。

日本のAI研究者に「ある世代」が極端に少ない理由

推論AIをつくろうという第五世代コンピュータで行われた囲碁の研究は、あくまでサブプロジェクトの扱いにすぎなかった。囲碁がプロジェクトの中心になっていたら、違うエンディングにたどりついたのではないか。そう思うと歯がゆい。

ゲームに勝つというアプローチでAIを研究する歴史は古い。1950年には、すでにコンピュータ・チェスの論文が登場している。そして、昔からAI学者は次のように言い伝えてきた。

「Chess is the Drosophila of Artificial Intelligence(チェスはAIのショウジョウバエである)」

遺伝学がハエの研究で進歩したように、AIはチェスの研究で進歩するという意味だ。その時点で海外では、AI開発におけるゲーム研究の重要性が知られていた。それにもかかわらず、なぜ第五世代コンピュータでは亜流の研究におかれたのだろう。不自然ですらある。

第8回(関連記事『官民連合で世界に挑んだ日本のIT…失敗が今日に残したものは?』参照)の最初で挙げた一つ目の疑問、「なぜ、現在の日本のAI研究がアメリカに遅れをとっているのか?」のヒントが、その不自然さのなかに潜んでいるのではないかと私は直感的に思った。

ゲーム情報学の第一人者、公立はこだて未来大学教授の松原仁先生に取材の機会を得た私は、早速かねてより気になっている質問をした。当時、日本ではチェスやゲームの研究はどのような状況だったのか、についてだ。そこから日本のAI研究の課題が浮かび上がるのではないかと私は考えた。

「1980年代、日本のゲームの研究はどのようなものだったのでしょうか?」

穏やかな物腰とは裏腹に、開口一番に松原先生から飛び出したのは驚きの発言だった。

「あのころは、ゲーム研究なんかするやつはクズだと言われていたんですよ」

松原先生は当時のゲーム研究に対する冷ややかな周囲の視線を語った。アマチュア将棋五段という腕前で、AIに興味を持っていた若き日の松原先生は将棋AIを自作し、東京大学の大学院でも研究しようとした。すると周りから厳しい声が飛んで来た。1981年、ちょうど第一次AIブームと第二次AIブームの狭間であった。この狭間の時代は、第一次ブームでAIへの期待をあおりにあおられ、その期待が裏切られた反動の時代である。

第一次AIブームのころには、囲碁AIらしきものが1970年の大阪万博に出品されてもいた。囲碁ができると宣伝された、その人工知能はなんとか詰碁をプログラムどおりに解ける程度の素朴なソフトだったが、もうすぐ人間に勝つ人工知能が登場するという幻想を人々に抱かせるには十分だった。しかし、その幻想も期待も裏切られ、大きな反動の時代が訪れた。世間は、人工知能に冷め切っていた。

「ゲームの研究なんてやっても学者として大成できない。もっと堅(かた)いテーマでないと学者としてポストがないと言われました。これはまだいい方で、ひどい罵声を浴びせられたこともあります。それほどものすごい偏見の目で見られた」

大学院にはAIの研究者はおらず、松原先生は知能ロボットの研究室で学んだ。そこでも、ゲームの研究はタブーだった。「ゲームは遊びでサイエンスが入っていない」「娯楽の要素が強すぎる」「研究は真面目でストイックであるべし」という強い偏見があったのだ。

私は研究開発には「遊び」の要素が不可欠だと考えている。ビジネス化だけに集中していると、どうしても視野が狭くなる。発想の転換や、別の分野から新しい考え方を持って来る思考ができなくなるのだ。すぐにビジネスになるもの、役に立つものだけを考えていたら、誰もデータの収集などしなかったはずだ。最初は役に立たない余分なデータが一定量以上を超えてビッグデータになっていったのだ。

これはすべての研究開発にいえることだろう。「余分」は必要なのだ。本来は学者こそ、遊びや余分を大事にして、広い視野を持つべきである。ゲーム研究を認めなかった当時の状況が、私にはまったく理解できない。

ただし、そんな時代でも若い研究者のなかにAI研究を志す者も少なからずいた。大学院では公に口にできない関心を抱いてしまった若い研究者はおのずと身を寄せ合った。「AIUEO(エーアイ・ウルトラ・エキセントリック・オーガナイゼーション)」という名前で大学の片隅に集い、海外の研究論文を読みあった。松原先生もここに参加した。

「はっきり言って地下活動のようなものですよ。秘密結社みたいな雰囲気だった。非公表な集まりではなかったんですが、学生たちは自分の参加を指導教官に秘密にしていました。あいつらと付き合うなと怒る先生もいましたからね」

私は絶句した。もはや迫害を受けているに等しいではないか。

AI研究に対する偏見の時代

日本でのゲームの研究に対する偏見は信じがたいほど強いものだった。そのため、AI研究そのものも諸外国に比べて遅れをとってしまった。第二次AIブームが来て1986年に学会ができるまではAI研究でさえ主流派に認められることはなかったと先生は言う。

松原先生がゲームプログラミングのワークショップを始められたのが1994年。ゲームを研究するゲーム情報学研究会ができたのが1999年。「逆にいうと1999年までは市民権がまったくなかった」と、先生は当時を振り返る。

しかし、それでもかろうじて市民権を得た状態にすぎず、日本では実に長い間にわたってゲーム研究は疎外されつづけた。先生が1998年に書いた文章※注を読むと、その事情がよくわかる。そこから当時の状況を見てみよう。

※注:「ゲームと情報科学─ゲームの研究はなぜ日本で疎外されてきたか」(松原仁、竹内郁雄編著『ゲームプログラミング』共立出版)

1990年代になると盛んにコンピュータ・チェスのシンポジウムを開催し、AI研究でもっとも権威がある学会誌『AIJOURNAL』に毎年必ず数本はゲーム研究論文が掲載されていた海外の状況とは雲泥の差があると、先生は文章のなかで述べている。

その時点で、創刊10年を経ていた日本の人工知能学会誌では、査読の段階でゲーム研究の論文は「門前払い」にされ、1本も掲載がされたことがない、と。それどころか、ゲーム研究の疎外の事実を詳しく述べることは「あまりに危険なので、ここには書けない事実も多い」とまである。この文章で先生は疎外の理由をいくつか挙げている。以下、重要な点を引用しておこう。

●お金儲けに直接つながらない研究はだめだった

●仕事と遊びをはっきり分けることが美徳とされ、ゲームは仕事ではなく遊びに分類された。仕事は本来苦しいもので、楽しむなどもってのほかであった

●日本では口先では基礎研究が大事と言いながら、本当に基礎研究をやることが許されていなかった

●日本では第1世代の偉い研究者がゲームの研究をしなかった

●日本人は貧乏性なので、周りからの圧力によってではなく、自らの意思で自己規制していた

松原先生は、「ひどい偏見の時代が長く続いた悪影響で、日本のAI研究者はある世代が極端に少ないんです。ちょうど私たちの世代です」と笑う。「その分、研究は海外に大きく遅れをとってしまったかもしれませんね」と。

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最終更新:4/30(火) 10:00
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