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クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

4/30(火) 15:07配信

Rolling Stone Japan

クイーンやフレディ・マーキュリーのような“劇的で、華々しく、過剰で、絶望的な”バンドやフロントマンは他には存在しなかった。クイーンとして生き抜いたフレディ・マーキュリーの生涯について、ローリングストーン誌が2014年に掲載した記事を紹介する。

写真あり:クイーンとして生き抜いた、フレディ・マーキュリーという悲劇的なラプソディ

復活は予想外のことであった。フレディ・マーキュリーとクイーンの他のバンド・メンバー、ギタリストのブライアン・メイ、ドラマーのロジャー・テイラー、ベーシストのジョン・ディーコンが1985年7月13日にロンドンのウェンブリー・スタジアムでの歴史的なライヴ・エイドのステージに登場した瞬間、その日は忘れられないものとなった。マーキュリーがピアノの前に座り、圧巻のサウンドを奏でるバンドを従え、クイーンの最も有名な、奇抜で華やかな曲「ボヘミアン・ラプソディ」を演奏し始めると、過去の出来事に深く根ざしていると思われるその歌を72,000人のオーディエンスが、まるでそれを1日中待ちわびていたかのように歌った。すべてはそこから始まった。マーキュリーが短く切ったマイクスタンドを手に取るとバンドは熱狂的な曲「レディオ・ガ・ガ」の演奏を始め、オーディエンスは一斉に頭上での手拍子をし、マーキュリーが堂々たる叫び声で煽ると拳を突き出してそれに応えた。これほどの大勢のオーディエンスがたった1つのバンド、1人の声の合図で一丸となってまるで“人の波”のように反応する光景には恐怖を感じる人すらいたほど強烈なパワーがあった。

クイーンがこんな復活を遂げるとはほぼ誰にも想像できなかった。彼らはそのまま消えていくと思われていた。1975年の名アルバム『オペラ座の夜』の後、凝ったポップスからハード・ロック、ディスコ、ロカビリー、ファンクまで、彼らはその音楽性の幅広さでヒットを次々と重ねていった。その後、マーキュリーがゲイであることを認めたのを多くのファンが受け止めることが出来ず、1980年代半ばまでに彼らの運命は変わり始めていた。1984年にはアパルトヘイトを行っていた南アフリカでツアーを行うという理解しがたい選択をした結果、クイーンは自国のイギリスでも孤立するようになった。しかし、視野の広さ、技術、ステージでの振る舞いなど、クイーンのすばらしさのすべてを見せつけたライヴ・エイドでのパフォーマンスの後、誰もがクイーンを求めることとなった。数年後、メイは「あれは完全にフレディの力によるものだ。俺たちメンバーは普通の演奏をしただけで、フレディがあそこで別の次元に持っていったんだ」と語っている。

フレディ・マーキュリーがエイズに伴う気管支肺炎によって亡くなってから約23年経った今も(2014年時点)、最も偉大なロック・バンド、最も物議を醸したバンドの1つとしてクイーンが遺したものは、メイとテイラーが数ヶ月後に行われる予定のアダム・ランバートとのツアーでどんな成功を収めようとも、彼と切り離すことはできない。テイラーとメイはマーキュリーとの年月を語る時(ディーコンはそういった話をすることを一切拒否している)、良い経験も悪い経験も含め、そのすべてに惑わされているように感じられることが今でもある。「俺たちはとても親密なバンドだったけど、フレディに関してはあまり多くを知らなかった」とテイラーはマーキュリーの死後に語っている。数年後、メイは「非現実的な体験で俺たちはめちゃくちゃになっていたよ。クイーンは世界で最も大きなものだった…。愛してくれる人たちに囲まれて、崇められて、でも完全に孤独で…。音楽に詰め込みきれなかったものが現実に流れ出たんだ」と語っている。

クイーンはフレディ・マーキュリーに始まりフレディ・マーキュリーに終わった。彼はバンドのアイデンティティと成功と失敗を体現したが、失ったものを乗り越えることができなかった。しかし、初めからフレディ・マーキュリーが存在していたわけではない。

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最終更新:4/30(火) 18:00
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