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村上春樹、成功までのドキュメント!辛島デイヴィッド『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』評

5/10(金) 12:14配信

GQ JAPAN

『理不尽な進化』などの著書で知られる文筆家・吉川浩満が、いま話題の文芸書・人文書を紹介する連載がスタート! 第1回は、村上春樹本人をはじめ30名以上へのインタビューをもとにした異色の文芸ドキュメントだ。

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村上春樹、成功までの道のり

村上春樹は日本を代表する小説家であるだけでなく、世界でもっとも広く読まれている日本人作家である。毎年ノーベル賞発表の季節になると、「今年こそ?」とメディアやファンが色めき立つ。本人からすれば迷惑な話だと思うが、それだけ人気があるということだ。そんな村上春樹も、かつては極東の若手小説家のひとりにすぎなかった。本書は、村上作品がアメリカ市場に進出し、ついには世界的な名声を確立するまでの道のりを追ったドキュメンタリーである。

村上春樹と聞いて思わずページを閉じたくなった人もいるかもしれない。村上春樹は国民的作家とか世界的作家と称えられる一方で、評論家の間でも一般読者の間でも毀誉褒貶の激しい作家として知られている。でも、ちょっと待ってほしい。昨年から今年にかけて大きな話題となったクイーンとフレディ・マーキュリーの伝記映画『ボヘミアン・ラプソディ』が、クイーンを知らない世代の人びとや、これまで食わず嫌いをしてきた人びとからも歓迎されたように、本書もまた未読者、アンチ、食わず嫌いをも振り向かせる魅力を放っているのである。

魅力ある本がそなえる条件のひとつに、いろいろな読み方を許容するという点がある。私は本書を少なくとも3通りの仕方で楽しんだ。そこで本稿では、この本の魅力を3つの側面から語ってみたい。

3つの魅力

■ムラカミ・ギャングたちの群像劇

まず本書は、村上春樹の作品に魅せられ、その紹介と普及に心血を注いだ世界中の「ムラカミ・ギャング」たちの群像劇として出色の出来映えである。この本には、村上春樹という小説家とその作品をめぐって、じつにたくさんの人びとが登場する。出てくるのは翻訳家だけではない。編集者、エージェント、デザイナー、評論家、広告代理店スタッフ、書店員、そして家族や友人たち……彼らがいかにしてギャングの一員となったのかが、当事者の口から活き活きと語られている。

彼らは村上作品という結節点がなければ出会うこともなかったかもしれない。それが人生のあるポイントで村上作品と出会い、惹き込まれ、あるいは巻き込まれたすえに、ともに村上作品の紹介と普及という稼業に手を染めることになる。まるで映画『ブルース・ブラザース』でも観ているようだ。バンドの結成からショーの成功まで、我々はスリルと楽しみを感じながら、その一部始終を見届けることができるのである。

■文学の流通と生産に関するケーススタディ

本書のふたつめの魅力は、これがグローバル市場における文学の生産と流通に関する貴重な歴史的証言、あるいはケーススタディとなっている点である。冒頭で触れたとおり、1980年代半ばまで、村上春樹は世界的には無名といってよい存在だった。

村上作品が英語に翻訳されたのは1987年、アルフレッド・バーンバウム訳の『1973年のピンボール』(Pinball, 1973)が講談社英語文庫から刊行されたのが最初だ。日本の英語学習者向けレーベルからの刊行という、これ以上ないくらい地味なスタートである。それがわずか10年後には世界的作家としての評価を確立しているのだから世の中はわからない。

世界的なブレイクは村上作品の魅力によるものであることはいうまでもない。異国の読者は、従来より親しんできたビッグ・スリー(川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫)とは明らかに異なる日本文学の新しい「ヴォイス」をそこに聴いたはずだ。だが、それだけでもないだろう。村上作品の翻訳がスタートした1980年代なかばという時代は、奇しくもバブル景気のはじまりと軌を一にしていた。野心あふれる出版関係者たちの熱意だけでなく、彼らに大胆なチャレンジを許した経済的環境もまた、「世界のムラカミ」の誕生を後押ししたのである。現代文学の生産と流通における資本主義経済と世界市場の役割の大きさを思う。

■文学を読むとはどういうことかについての示唆

本書の3つめの魅力として、文学を読むとはどのようなことかについての示唆がある。私は本書を読むまで、村上作品の英語版に大胆な編集や翻案が施されているという事実を知らなかった。さんざんアメリカ風(場合によっては無国籍風)といわれてきた村上作品のこと、翻訳に際しても縦のものを横にするだけでたいした苦労はなかったのではないかと安直にも思い込んでいた。だが、事実はまったく異なる。

言い換えや補足といった翻訳につきものの作業だけでない。削除や省略、章や節のタイトル変更、はては章の順序の入れ替えといった大工事まで行われているのである。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や『ねじまき鳥クロニクル』の英語版を手にとってみてほしい。翻訳者や編集者による苦心惨憺のあとをうかがい知ることができる。また、これを承諾した原作者の度量の大きさも。

つまり、読者がHaruki Murakami(村上作品の英語版)の新鮮なヴォイスに魅了されるとき、彼らはその制作に携わったすべての者たちのヴォイスをも同時に聴きとっているということだ。これこそ、レイモンド・カーヴァーの佳品をもじった本書の奇妙なタイトルに込められた意味である。もちろん翻訳でなくても事は同様だろう。レイモンド・チャンドラーやスコット・フィッツジェラルド、フランツ・カフカといった彼のアイドルたちをはじめとして、村上春樹(日本語の「原作」)の作品にもすでに多数の声がこだましているはずだ。知らない声もたくさん混じっているにちがいない。

本書を読みすすめるうち、ひとりの作家の作品といえどもすでに多数のヴォイスによって構成されているという当たり前の事実に、いまさらながらに気づかされるのである。


辛島デイヴィッド(からしま デイヴィッド)
PROFILE
1979年東京都生まれ。作家・翻訳家。現在、早稲田大学国際教養学部准教授。タフツ大学(米)で学士号(国際関係)、ミドルセックス大学(英)で修士号(文芸創作)、ロビラ・イ・ビルヒリ大学(西)で博士号(翻訳・異文化学)取得。日本文学の英訳や国際的な出版・文芸交流プロジェクトに幅広く携わる。2016年4月から2017年3月まで、NHKラジオ「英語で読む村上春樹」講師もつとめた。

吉川浩満(よしかわ ひろみつ)
PROFILE
文筆業。1972年3月、鳥取県米子市生まれ。国書刊行会、ヤフーを経て、フリーランス。関心領域は哲学/科学/芸術、犬/猫/鳥、デジタルガジェット、映画、ロックなど。哲学愛好家。Tシャツ愛好家。ハーレーダビッドソン愛好家。卓球愛好家。
著書に『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』(河出書房新社)、『理不尽な進化 遺伝子と運のあいだ』(朝日出版社)、共著に『脳がわかれば心がわかるか 脳科学リテラシー養成講座』などがある。翻訳も手がけ、近著に『先史学者プラトン 紀元前一万年―五千年の神話と考古学』がある。

文・吉川浩満

最終更新:5/10(金) 12:14
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