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李登輝が「中国には勝てない」と思ったワケ

5/11(土) 12:20配信

Wedge

台湾の民主化を恐れた中国の反応

 1988年、蒋経国の急逝を受けて総統に就任した李登輝だったが、社会の安定を損なわないよう、蒋経国路線を継承するとしながらも、台湾を少しずつ民主化の方向へと進めてきた。

 また、それまで台湾の中華民国と大陸の中華人民共和国は、自分たちこそが中国の正統な政府という主張を崩していなかった。中華民国からすれば、中国大陸は「共産党に奪われた領土」であり、いつかは大陸を取り戻すというスローガン「反攻大陸」が国是とされていたのだ。

 それゆえ、中華民国の統治範囲は台湾にしか及んでいないのに、90年代に市販されていた「中華民国全図」では、中国大陸全土が国土として描かれていたという。ちなみに当時の地図は現在「復刻」されて、記念品として売られている。

 こうした状況に変化をもたらしたのもまた李登輝だった。1991年、李登輝は「中華民国(台湾)と中華人民共和国は内戦中」と規定した、いわば国家総動員法の「動員戡乱時期臨時条款」を撤廃した。李登輝からすれば、いつまでも実現可能性がないに等しい「中国大陸奪還の夢」にこだわって国力を浪費するのをやめ、あらゆる資源を台湾へ集中させようという意図であった。

 もちろん、そこには「中国大陸は中華人民共和国が有効に統治しているのを認める。だから、台湾は中華民国が統治してやっていく」と宣言する意図もあったのだが、それが中華人民共和国の逆鱗に触れた。「台湾の民主化=台湾の独立」に繋がる、と捉えられたのである。

 そこで中国は諸外国に対し、盛んに「李登輝を国家元首として接遇してはならぬ」と圧力をかけ続けていたのだ。

李登輝の訪米を可決したアメリカ議会の底力

 李登輝が推し進める台湾の民主化に世界の注目が集まっていたさなかの1995年4月上旬、李登輝のもとを米コーネル大学学長のフランク・ローズが訪れた。大学が傑出した卒業生である李登輝の名を冠した講座を開設するにあたり、記念式典への出席と講演を要請するためだった。

 現役の台湾総統が訪米するなど前代未聞である。実現すれば中国の大きな反発を招くことは容易に想像できた。それでもなお、ローズ学長をはじめ大学側が自分の招請に踏み切ったわけを李登輝自身はこう分析している。

「米国は民主主義を重視する社会だ。良くも悪くも、他国に対しても民主主義制度を持つべきだと考えているところがある。仮に私が訪米したら何を話すか。台湾の民主化について話すに決まってるんだ。当時、台湾の民主化は相当な水準まで進んでいた。それを彼らは話させたいということなんだ」

 総統選挙が翌年に迫っていたが、李登輝によれば決して選挙のために訪米を決めたわけではないという。台湾の国際的な地位が低い状況のなかで、自身が提唱した「現実外交」に沿って、どんなやり方であろうとチャンスさえあれば出向き、相手国との関係を築く。こうした考え方をベースに、訪米を決断したというのだ。

 李登輝が訪米の招請を受諾し、準備を始めると徐々にその情報が伝わり出した。中国は再三にわたり抗議活動を展開した。米国は当時、中国寄りとされる民主党のクリントン政権だったため、当初はコーネル大学が進めた李登輝招請に難色を示したとされる。

 ところが、李登輝の訪米を支持する決議が上下院の絶大な支持のもとで可決されたため、クリントン大統領も同意せざるを得なくなった。

 当時の米中関係は決して悪くなく、良好な関係を維持し続けることは米国にとっても国益に適うはずだったが、米国の民意が台湾の民主化を無血で成し遂げつつあった李登輝の訪米を優先させたのだ。

 李登輝も当時を思い出してこう語る。

「議会の力というのはすごい。私を訪米させるために投票までやったんだ。訪米したときは上院議長がわざわざ出迎えてくれたし、議員が何人も会いに来てくれた」

 結果的に、中国の圧力や、議会での議決などもあり、この95年6月の李登輝訪米は国際社会で大きな注目を浴びることとなった。

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最終更新:5/11(土) 12:20
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