ここから本文です

秀吉の朝鮮出兵。必ずしも無謀とはいえない?

5/14(火) 12:07配信

PHP Online 衆知(歴史街道)

後陽成天皇が秀吉の朝鮮渡海を止めた理由

全国統一を実現した豊臣秀吉は朝鮮への出陣を命じ、天正20年(1592)、第一軍の小西行長らは4月13日に釜山城を包囲します。その後、日本軍は破竹の進撃を続け、5月3日には首都・漢城(現在のソウル)を落とします。
これに気をよくした秀吉は、同月18日、甥の関白豊臣秀次に朱印状を出し、後陽成天皇を北京に移すという構想を表明します。後陽成天皇を明の帝位につけ、大唐関白に秀次をあて、日本の帝位には若宮(後陽成天皇の皇子良仁親王)か八条宮(皇弟の智仁親王)をつけ、羽柴秀保(秀次の弟)か宇喜多秀家を日本関白にする、というものです。
そして秀吉は、いてもたってもいられず、朝鮮に渡海すると表明します。自ら軍勢を率いて、明を征服しようということでした。
これを不安に思った徳川家康と前田利家は、「船頭どもの言うには、土用のうち、7月は不慮の風が吹く恐れがあるので、万一のときは天下一同が相果てることになります。私と前田利家をまず派遣いただければ、上意の趣はおおむね命じます」と涙を流して秀吉を止めました。
このため秀吉は、自身の渡海を延期し、石田三成・増田長盛・大谷吉継の三奉行を朝鮮に派遣します。
その後、秀吉は、大政所(秀吉の母)の葬儀のため京都に戻り、正親町上皇や後陽成天皇の止めるのも聞かず再び九州の名護屋に行き、渡海の準備をします。
翌文禄2年(1593)正月5日、正親町上皇が崩御します。祖父上皇を失った後陽成天皇は、渡海の準備をしている秀吉にあてて宸翰(天皇の手紙)を出します。これには、次のようなことが書いてありました。
「高麗への下向、険路波濤を乗り越えていくことは、勿体ないことです。家臣を遣わしても事足りるのではないでしょうか。朝廷のため、天下のため、発足は遠慮なさってください。遠い日本から指示して戦いに勝つことにし、今回の渡海を思いとどまってもらえれば、たいへん嬉しく思う」
後陽成天皇は、なぜ秀吉の朝鮮渡海を止めようとしたのでしょうか。
これまでの研究では、後陽成天皇が秀吉の方針にやんわりと反対を表明した政治的な手紙だとしています。しかし、そうでしょうか。
後陽成天皇は、秀吉から北京へ行幸するという話を聞いた時、連れていく公家の人選を始めています(跡部信『豊臣政権の権力構造と天皇』)。秀吉の方針に異を唱えることなど考えていません。
後陽成天皇は、まだ20歳そこそこです。秀吉が日本からいなくなることに、いい知れない不安を覚えたのではないでしょうか。このため、すがるような思いで、秀吉の渡海を止めたのだと思います。

1/2ページ

最終更新:5/14(火) 12:25
PHP Online 衆知(歴史街道)

記事提供社からのご案内(外部サイト)

歴史街道

PHP研究所

2019年7月号
2019年06月06日発売

680円(税込)

【総力特集:日清・日露戦争 名将の決断】先を見通せない時代において、日本の陸海軍の名将たちは、いかにして決断を下し勝利を手繰り寄せたのか。

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事