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私の“奇跡の一枚” 連載15 雷電イメージ!?の富士ケ嶽

5/14(火) 12:19配信

ベースボール・マガジン社WEB

 私は相撲の町両国で保育園の理事長を務めている。平成25年(2013)3月31日に竣工式を行った5階建ての、夢と希望に満ちた新園舎に掲げる看板の字も相撲字である。

私の“奇跡の一枚” 連載14 木村正直の名裁き

 長い人生には、誰にもエポックメーキングな瞬間があり、それはたいてい鮮やかな一シーンとなって人々の脳裏に刻まれている。
 相撲ファンにも必ず、自分の人生に大きな感動と勇気を与えてくれた飛び切りの「一枚」というものがある――。
 本企画では、写真や絵、書に限らず雑誌の表紙、ポスターに至るまで、各界の幅広い層の方々に、自身の心の支え、転機となった相撲にまつわる奇跡的な「一枚」をご披露いただく。
※月刊『相撲』に連載中の「私の“奇跡の一枚”」を一部編集。平成24年3月号掲載の第2回から、毎週火曜日に公開します。

相撲部屋を保育園に

 相撲ゆかりの保育園と知られる本園は、昭和29年(1954)、相撲界の年寄だった富士ケ根親方が創立したもの。現役名は富士ケ嶽孝一郎(のち師名を継いで若港三郎。本名渡辺孝一郎)。分かりやすく言えば戦前の双葉山時代の幕内力士で、その名の示すとおり、山梨県は富士の裾野の鳴沢村の出身。得意は190センチの長身を生かした吊りだった。

 高砂部屋系の富士ケ根部屋の力士で、一時は部屋も持ったが、戦後、大横綱双葉山の生き方に共鳴し、自身の道場はたたんで、時津風部屋の親方となった。保育園は、その相撲部屋の土俵と敷地をもとに作られた。親方が保育の道を志すに至ったのは、力士を育てるのも意味があるが、これからは日本の未来を担う子供たちを育てたいという切なる気持ちから。

 開園当時、マスコミは、力士の中でも巨人と言われた人と、いたいけな園児の取り合わせを、“ガリバー園長”とほほえましく報じた。

芸術家好みの風貌と豪傑エピソード

 実は私はその姪っ子なのだが、伯父の現役時代のことはほとんど記憶がない。彼の相撲はかなり江戸時代的で、組み合ってからやおら力を出すというタイプだったため、番付的には前頭3枚目に終わった聞いている。しかしその怪力、豪傑伝説には事欠かない。

 あるとき、角通の古老が、

「富士ケ嶽は、少年少女ばかりでなく、大のおとなが“雷電の再来”というイメージをかき立てるような風貌と行動の持ち主だったんだよ。」と話してくれた。

 なるほど、歌人谷鼎(たにかなえ)も次のような歌を詠んでいる(歌集『伏流』)。

「六尺の偉躯ゆたかにすわる君の辺に坐りまどふがごとく座りぬ」

「富士の名を負ひたる君のおのづからふるまふことの山のごとしも」

「なまよみの甲斐の吉田に生いたちて偉躯白皙の君はゆたけし」(なまよみ=甲斐に掛かる枕言葉。白皙=皮膚の色が白いこと)

 さてその雷電は江戸時代に現れた空前絶後の大力士で、七尺に達する筋骨隆々とした強靭な体に、怪力を備えるも、「その顔容は穏やかであり、性質は純直、几帳面、意志強固で義理堅かった」と伝えられている。心優しく頭も大変いい人だったようだ。そうか、そういう人だったのか。まるで伯父さんみたい……。恐れ多くも私はそう思うようになっていた。

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最終更新:5/14(火) 12:19
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