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コンコルドはなぜかくも厄介な旅客機だったのか? ― 超音速飛行をめぐる波瀾万丈の物語

5/18(土) 21:10配信

エスクァイア

滑走路を疾走して空へ舞い上がっていく、機首が鋭くとがった男心そそる飛行機…。1973年のこの日、フランスのル・ブルジェ空港で開催されたパリ航空ショーに集まった20万もの群衆が目撃したのは、当日の主役であるコンコルドが地平線を目指して飛んでいく勇姿でした。

【ギャラリー】超音速旅客機「コンコルド」の機内の様子から、1960年代~70年代に撮影された当時の様子を写真や映像

…ところが、同じパリ航空ショーに参加していたコンコルドのライバル機のほうは、ある不幸に見舞われます。ソ連のTU-144は、イギリスとフランスが共同開発したコンコルド同様、超音速による空の旅という新しい時代の門戸を開くべく製造された飛行機でしたが、こちらは上昇中に突如方向を変えて、まるで石が落ちるように近郊の村グッサンヴィルに墜落、飛行機の乗員6人と地上の住民8人が犠牲となったのです。

 このような悲劇に見舞われはしたものの、1973年のパリ航空ショーは超音速時代の幕開けを告げるもので、その先駆けとして登場したのがコンコルドでした。

 1976年から2003年まで、コンコルドは大西洋横断にかかる時間を半分に短縮して、ニューヨークからロンドンまたはパリへ向かう乗客を、わずか3時間半で運んだのです。飛行高度は5万フィート以上で、窓から外を眺めると、地球が丸いことがはっきりわかります。そしてチケット代は、おそろしく高額でした。ほんの数時間であれ、未来を経験できるのですから安いわけがありません。

 そしてその未来も、今ではすでに過去のものとなりました。

 なぜなら、財政的な問題や音速を超える空の旅の難しさから、コンコルドは15年以上も前に引退してしまったからです。以後、超音速旅客機の路線便はひとつもありません…いまのところは。しかしながら初飛行から半世紀が経過した今も、コンコルドのエンジニアリング精神は生き続けています。とりわけ、超音速旅行の復活を模索する新しいタイプの航空事業者などの間においては。

コンコルドの誕生

 1947年10月14日、その壁を破ったのは、チャック・イェーガー氏(Chuck Yeager)でした。実験機ベル「X-1」のテストパイロットとなった彼は、4万フィートを超える高度で音速を突破、歴史にその名を刻みました。現在に至るまで、飛行機で最も速く飛んだのはこの男になります。

 しかし、このことは当時は誰も知りませんでした。というのも、アメリカ合衆国政府は1948年まで、このプロジェクトをトップシークレット扱いにし、秘密のベールに包んでいたからです。しかし、音速を超えるスピードでの飛行が可能だということは、すぐに世界中の国々に知れ渡りました。

 1950年代は、宇宙開発競争が勃発した時代ですが、成層圏では音速を超えるスピードで乗客を運べる旅客機をつくって、効率的に地球を小さくする競争が繰り広げられたのです。

 地球を周回する軌道にソ連が人工衛星を投入し、アメリカがそれを追いかけるという展開の宇宙開発競争では、イギリスはほとんど傍観者の立場にありました。しかし、超音速旅客機をめぐる争いは、戦後のヨーロッパがもう一度プライドを取り戻す、格好の舞台となったのです。

 国の要請を受けて、様々なグループがこの競争に参加してきました。例えば1956年に商業利用に適した超音速旅客機(SST)の開発を課せられた、イギリスの超音速輸送機委員会(Supersonic Transport Aircraft Committee)などがそれに当たります。

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最終更新:5/18(土) 21:10
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