ここから本文です

咸臨丸の太平洋横断を「わが偉業」にでっち上げた勝海舟の虚構【検証 「徳川近代」 原田伊織氏インタビュー】

5/19(日) 9:01配信

サライ.jp

「歴史は勝者がつくるもの」とは世の理。敗者の歴史は後世顧みられることもなく、闇に埋もれてしまうこともある。原田伊織氏が近著『消された徳川近代 明治日本の欺瞞』で提唱する「徳川近代」も然り。

元『歴史読本』編集者で歴史書籍編集プロダクション・三猿舎を経営する安田清人氏による直撃第二弾は、咸臨丸太平洋横断の虚実に迫る。

虚構だらけの咸臨丸渡海

――咸臨丸の太平洋横断は、幕末維新のキーマンの一人である勝海舟について語る際、絶対に落とすことのできない「栄光の歴史」として語られてきました。

原田 これはどうしても訂正しておかなくてはならない「欺瞞」です。咸臨丸の渡航自体は、もちろん日本にとって記念すべき出来事ではありますが、遣米使節の派遣という大事業の一環に過ぎませんし、それは決して勝海舟の「偉業」などではありません。

――咸臨丸はなぜアメリカに渡航したのでしょう。

原田 まず安政五年(1858)に日米修好通商条約が締結されます。国際条約ですから、批准書を交換する必要がある。そこで、安政七年に遣米施設が派遣されることになります。正使が新見正興、副使は村垣範正、そして目付が小栗上野介忠順です。彼らは、まさに「徳川近代」を支えた優秀な官僚たちでした。なかでも小栗は、開明的で当時としてはかなり抜きんでた国際派と評価できます。小栗ら一行は、アメリカ軍艦のポーハタン号に乗船してアメリカを目指しました。

このとき、幕府が進めてきた海軍伝習の成果を試すために、幕府軍艦を随行させることになります。それが咸臨丸でした。つまり、この使節派遣の主役はあくまでもポーハタン号。「咸臨丸の偉業」というのは、そもそも後に勝が自己宣伝のためにつくり上げた虚像なのです。咸臨丸での渡航時、勝は軍艦奉行木村摂津守喜毅の下で教授方頭取を務めました。木村が提督、勝はその下の艦長という位置づけです。しかし、勝は出航後すぐに激しい船酔いに苦しみ、アメリカ到着までに三回しか船室から出てこなかったと言います。まったく役には立たなかったということです。

――勝海舟が咸臨丸を操縦し、見事に日本人だけの力で太平洋を渡ったというイメージで語られています。

原田 勝という人は、調整能力や折衝の能力は優れていたと思います。しかし、船舶の運航や航海などの海事関係は、からっきしダメだった。ですから、長崎海軍伝習所に一期生として入学したにもかかわらず、一度落第しているくらいです。そして海軍の伝習を受けていたにも関わらず、船酔いが治らなかったのですから、自然環境にも弱かったのでしょう。端的に言って船乗りには向いていません(笑)。

1/2ページ

最終更新:5/19(日) 11:32
サライ.jp

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事