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林敏之が語るラグビーW杯大会。 名選手揃いも「勝ち方を模索してた」

5/19(日) 7:37配信

webスポルティーバ

レジェンドたちのRWC回顧録③ 1987年大会 林 敏之(前編)

 もう32年も経つのか。でも、ダイマルさんこと、林敏之さんのラグビーにかける情熱は変わらない。今はNOP法人ヒーローズの会長を務め、世界の子どもたちへのラグビー普及に奔走している。自分がラグビーから授かった「恩」を次の世代につなぐ、いわば「恩送り」の活動に熱中する。

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「ラグビーを通し、沸き上がる感動をぜひ、体験してほしい」。心はラグビーのみに向かっている。昔のラグビー体験を思い出し、つい涙ぐむ時もある。ゴールデンウィーク直前、世界7カ国のちびっ子ラガーが参加した『こどもワールドフェスティバル2019』が開催されていた横浜の日産スタジアム。ラグビーワールドカップ(RWC)の決勝会場で、1987年の第1回RWC日本代表の思い出をじっくり語ってもらった。

 記念すべき第1回大会のキャプテンはもう、59歳となった。トレードマークのひげには少し白いものも交じる。昔懐かしのアマチュア時代。年間百数十日ぐらい合宿する今とは違い、当時の代表合宿はせいぜい遠征前の1週間程度だった。「全然違ったね」と小さく笑った。

「日本代表はそのつど、チームをつくって、遠征して、終わったら"ばらけ"ていたよね。試合の意識を高めていこうといったゲームフィットネスとかの意識はないから。だって、みんな仕事があるから。遠征前はその分、残業をしないといけないみたいな感じだった」

 第1回大会は、KDD(現在のKDDI)がスポンサーとなり、ニュージーランドとオーストラリアで招待大会として開かれた。日本代表は1次グループ初戦のアメリカに18-21で競り負け、イングランドには7-60で大敗したが、最終戦の優勝候補、オーストラリア相手に23-42と健闘した。

――最初に思い出すことは、何でしょうか。

「最後のオーストラリア戦が終わった時のことかな。なんとか、まともな試合をしたという感じだった。最後の試合が終わった。ホッとした感じだった。あれはもう、やり切った試合だった」

――途中まで互角の展開でした。

「食らいついて、僅差の試合ができていたよね。オーストラリアはあの時、オールブラックス(ニュージーランド代表)より勝率がよかったからね。優勝候補ナンバーワンと言われていた。結果は(準決勝で)フランスに劇的な逆転負けを喫してベスト4で終わったのかな。でも、アラン・ジョーンズが監督をしていて、強かったんだ」

――初めてのワールドカップです。どんな大会でしたか。

「そんなもの、できんのかって。そう、みんなワールドカップがどんなものか、わからないものね。(招待大会で)予選もなかった」

――キャプテンとして意識したことは。

「当たり前だけど、ベストを尽くして勝ちたいということだけだったね」

――監督が人情家の宮地克実さんでした。

「そう、宮地さん。日本代表スコッドは選手26人で、団長、監督、コーチ、フィジオ(セラピスト)を含めて30人だったよね。いまは31人の選手がいて、バックアップメンバーやスタッフ20人ぐらい連れていくでしょ。僕らは合宿の時、メンバーが足りないから、宮地さんがアタック・ディフェンス(タックルなしの実戦形式練習)にも入っていた。それで、敵陣からどかん、どかんとラックに入ってきてさ。あの時、いくつかな。50前かな。すごいな、このオッサンって」

――日本代表のチームスローガンってあったんですか。

「あったよ。おれたちのチームは、"団体でいこう"だった。あの時、(シナリ)ラトウがスクラムから右サイドを攻める"ラトウ単独"というサインプレーがあったんだ。練習で、"ラトウ単独"って言ったら、宮地さん、"あかん、あかん、単独はあかん、団体で行け"って。それで、動きは一緒だけど、サインが"ラトウ団体"になった。ま、みんなで行こうという話やね。ラトウのサイドアタックは、"ラトウ団体"って言ってね。ははは」

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最終更新:5/19(日) 13:12
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