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三菱財閥創始者・岩崎彌太郎が清澄庭園をこだわって造り上げた理由

5/23(木) 19:53配信

ニューズウィーク日本版

訪日外国人にも人気の日本庭園。なぜ歴史に名を残した人たちが日本庭園にたどり着くかを考えると、その見方も変わってくる。清澄庭園(東京)の名石コレクションには岩崎の自負が隠されているのではないか。

金沢の兼六園や岡山の後楽園、水戸の偕楽園など、人々を魅了する日本庭園は各地にあるが、訪れるのは日本人だけではない。

実際、Japanese gardens(日本庭園)に関する英語の情報はインターネットにあふれており、アメリカには日本庭園の専門誌まである。今や日本庭園は、日本を訪れる外国人にとって外せない「見るべきもの」となっているのだ。

京都を中心に庭園ガイドをしている生島あゆみ氏はこのたび、「なぜ、一流とされる人たち、歴史に名を残した人たちは、日本庭園にたどり着くのか」をテーマに執筆。『一流と日本庭園』(CCCメディアハウス)を刊行した。

庭園そのものだけでなく、それらを造った人物、深い関わりのある人物の人生を見つめた上で、庭園との結びつきを読み解いた。これ1冊で日本庭園の見方・楽しみ方が変わるというユニークな一冊だ。

ここでは本書から一部を抜粋し、3回に分けて掲載する。第3回となる今回は、三菱財閥の創始者である岩崎彌太郎と、彼が造った東京の清澄庭園について。

岩崎彌太郎(1834年~1885年)と清澄庭園(きよすみていえん)(東京)

名石のコレクションとも言うべき、三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎が造った清澄庭園。江戸時代の地下浪人から、明治に入り一大財閥を築いた岩崎が、こだわり造り上げた庭園の運命とは。

<土佐藩の岩崎彌太郎>

岩崎彌太郎は、土佐・井ノ口村の地下(じげ)浪人の家に生まれました。土佐藩と言えば、坂本龍馬ですが、龍馬は下級武士の家に生まれています。土佐では、上級武士が山内一豊など山内家に仕えていた家臣の子孫で、下級武士はそれ以前の長宗我部氏の家臣とすっかり線引きをされていました。岩崎彌太郎の場合は地下浪人で、さらに身分が低く、幼少期は極貧の中で育ちました。しかし、頭脳明晰だったために幼くして、儒学者・小牧米山(こまきめいざん)に弟子入りしました。

21歳のときに江戸に行き、帰国後土佐藩の執政・吉田東洋を知ったことから後藤象二郎と親しくなり、この関係が明治維新後も続くことになります。土佐で坂本龍馬と交流を持ったかどうかはわかりませんが、1865年に長崎で龍馬らが運営していた「亀山社中(かめやましゃちゅう)」が「海援隊」となり、このとき、会計を担当していたのが岩崎彌太郎です。

彌太郎の日記に、「午後坂本竜馬来たりて酒を置く。従容(しょうよう)として心事を談じ、かねて余、素心(そしん)在るところを談じ候ところ、坂本掌をたたきて善しと称える」とあります。広い世界を感じながら、長崎で龍馬は政治改革、彌太郎は商売に奔走していたのでした。

「いろは丸」で龍馬は航海に出ますが、別の船と衝突して沈没してしまいます。衝突した相手側と賠償責任の交渉をしたのも彌太郎でした。長崎では武器商人グラバーとも取引します。それが縁で、維新後、グラバーは三菱で雇われることになります。

1867年6月9日、長崎で、後藤象二郎と坂本龍馬が、睡蓮船に乗って京都に向かい出航したとき、見送りに出た彌太郎は、「不覚にも数行の涙を流す」と、日記に書き残しています。約5ヶ月後、龍馬は京都で暗殺されます。彌太郎は、志半ばで暗殺された龍馬の遺志をも引き継ぎ、海運業に邁進していくのです。

(中略)

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最終更新:5/23(木) 19:53
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