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資本主義と闘った経済学者「宇沢弘文」の生き様

5/24(金) 15:00配信

東洋経済オンライン

経済学という学問の「奥の院」のメンバーであり、ノーベル経済学賞に最も近かった日本人と称される故・宇沢弘文。主流派経済学の発展に寄与しながら、後に徹底批判へと転じた背景にあったものは何だったのか。86年の生涯を640ページ余で描いた『資本主義と闘った男 宇沢弘文と経済学の世界』の著者、ジャーナリストの佐々木実氏に聞いた。

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■アメリカでの地位を捨て帰国

 ──執筆のきっかけは? 

 竹中平蔵の評伝『市場と権力』の取材の一環でお目にかかりました。竹中に関する質問は早々に切り上げ、経済学者および経済学への疑問を次々にぶつけました。これまで出会った経済学者とは全然違う、深い問題意識を持つ碩学であるとわかったからです。

 評伝を書く許可を得た後、宇沢の自宅で1日中話を聞く機会が何度もありました。私の経済学の知識が乏しかったため、執筆に時間がかかってしまいましたが。

 ──宇沢は米スタンフォード大学、シカゴ大学を拠点に活躍し、35歳でシカゴ大教授になりました。

 アメリカでは若手で一、二を争う理論家と目されていました。宇沢と親しかったアロー、ソロー、アカロフ、スティグリッツに取材したのですが、ノーベル経済学賞受賞者の彼らがそろって、「ヒロ(宇沢のこと)は当然受賞すべきだった」と証言したのが印象的でした。

 資本主義の不安定性を示唆する結論を導いた「宇沢二部門成長モデル」で宇沢弘文の名は世界に知られるようになりましたが、一般均衡理論や消費理論など幅広い分野でも業績を残しています。数学の能力に秀でていたので「経済学の数学化」の時流に乗り、評価は高まる一方でした。

 ──ところが不惑を迎える年にアメリカでの地位を投げ捨て、帰国。その後、『自動車の社会的費用』を著すなど啓蒙家として注目されます。

 データ上では高度成長を遂げ輝いて見えた日本で、実際は公害が蔓延しているといった現実を目の当たりにします。しかもそれが経済学の盲点となる外部不経済の問題で、主流派経済学では分析できなかった。

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最終更新:5/24(金) 15:00
東洋経済オンライン

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