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渋谷・表参道は「焼死体の山」となった――米軍が実行した残虐な「山の手空襲」とは

5/24(金) 6:05配信

デイリー新潮

 今から74年前の1945年3月10日、深川、本所、両国、下谷など、東京東部を襲った東京大空襲。一晩だけでおよそ10万人が亡くなり、100万人以上が罹災した。毎年その日には、墨田区横網にある都慰霊堂で慰霊祭が行われる。今年3月の慰霊祭には秋篠宮ご夫妻も参列、遺族ら約600人が御霊を慰めたという。
 しかしあまり知られていないが、帝都への大規模空襲は、何もその日を境に終わったわけではなかった。東京は1944年11月から翌年8月の終戦までに130回にも及ぶ空襲を受けているが、3月の大規模空襲「下町空襲」に対し、4月と5月、東京全域を襲った4度の大規模空襲が「山の手空襲」である。

【写真】10万人にのぼる死者で街や河が埋めつくされた東京。両国駅上空から撮影

 名古屋、大阪、神戸などで無差別市街地爆撃を繰り返した後の4月13日、米軍はB29、330機(米側発表、以下同)の編成で東京に戻ってくる。赤羽、豊島、王子、小石川、新宿等々の地区を襲い、このとき、皇居とともに明治神宮も罹災している。
 この6月で「東京大空襲・戦災資料センター館長」を退任することとなった早乙女勝元氏の著書、『写真版 東京大空襲の記録』には、その日の空襲の様子が克明に記されている(以下、〈〉内引用は同書)。早乙女氏は1932年生まれ、自らも大空襲の被災者だ。

〈4月13日、敵はまたしても大挙してやってきた。
 夜11時過ぎからB29 160機(米側発表330機)が、深夜3時間余にわたって赤羽の兵器廠(へいきしょう)地区を主に、豊島、王子、小石川、荒川、四谷、牛込、麹町の各区を襲い、爆弾・焼夷弾を混投した。爆撃の照準は、下町地域から山の手地域へと拡大したのである〉

『戦艦武蔵』などの記録文学で知られる作家の吉村昭は、当時17歳。家族と日暮里に住んでいた。その夜の経験をこう綴っている。

〈4月13日夜、私の町の上空にB29が低空で飛び交った。その機体は巨大な淡水魚のようにみえ、その腹部から焼夷弾がばらまかれた。裏手の家の中でも炎が起り、私はバケツを手に消火に赴こうとした。その時、父が、
「お前一人で消そうとでもいうのか、早く逃げろ」
 と言って、先に立って路上に出て行った〉

 当時、消防は、空襲による火災の消火を市民に押し付けていた。といっても、出来ることは「バケツリレー」の類。避難よりも消火活動をという指導により、人的被害が大きくなったと、戦後になって指摘されている。
 さらには2日後の15日には、B29が340機の編成で、東京西部、世田谷、目黒、大森、蒲田など広汎(こうはん)な地域に焼夷弾を投下していった。この両日で、約3300人の死者が出ている。
 そして名古屋を潰滅させた後、米軍は再び東京上空へ。

〈(4月)17日午後2時、またまた3600トンが投下され、名古屋市内は半分以上を失い、そして、いよいよ東京の焼け残りの町へ第3次大規模空襲の火の雨が降りそそぐことになる。
 5月24日が、まずその前哨戦で、この日未明、空襲警報のサイレンと同時にB29 250機(米側発表525機)が都内西部方面に侵入、2時間余にわたる無差別攻撃を行なった。投下焼夷弾は3600トンに達し、これで大森、品川、目黒、渋谷、世田谷、杉並の各区に大火災が発生、警視庁調査で死者762名と、負傷者4130名を出した〉

 さらに凄惨を極めたのは、翌日の大規模空襲だった。25日深夜、B29 470機が東京上空に現われる。

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最終更新:5/30(木) 18:38
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