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なぜイエズス会は長崎で多くの信者を獲得できたのか?

5/25(土) 6:02配信

サライ.jp

『サライ』本誌で連載中の歴史作家・安部龍太郎氏による歴史紀行「半島をゆく」と連動して、『サライ.jp』では歴史学者・藤田達生氏(三重大学教授)による《歴史解説編》をお届けします。

文/藤田達生(三重大学教授)

前回、長崎の要塞化については、イエズス会による内部の六町に居住する日本人信者の信仰と自治を守るための方策として紹介した。しかし、これは一面であり、むしろイエズス会の世界戦略という視点から理解した方が正確である。

時は「大航海時代」。コロンブス、マゼラン、ヴァスコ・ダ・ガマに代表される航海者、探検家、商人が活躍できたのは、西洋諸国において、羅針盤を用いた航海術が普及し、逆風が吹いても前進可能な大型帆船が造船されるようになったからだった。地動説が浸透したのは、彼らの命がけの航海によって地球が丸いことが証明されたからでもあった。

スペインやポルトガルといったイベリア半島の両国は、優秀な航海技術をもとに莫大な富を求めて海外征服を目指すことになる。彼らは、あらかじめ利権がぶつからないように、ローマ教皇も交えてキリスト教以外の異教世界を二分した。両国間における排他的な航海領域の設定と新発見地の領有や独占権については、1494年6月7日付のトリデシリャス条約の締結によってルールが決定された。

ベルデ岬(アフリカ大陸最西端、セネガル領内の岬)の西沖の370レグア(スペイン・ポルトガルで使用された距離単位、ポルトガルでは5000メートル)を通る経線を基準に、東側全域をポルトガル領、西側全域をスペイン領としたのであった(デマルカシオン)。このように、両国によって勝手に未発見の諸国も含めて地球規模で領地が分割されたのだった。

この条約によると、日本はポルトガル領となる予定だった。ポルトガル国王は、このような一方的な植民地化を正当化するために、ローマ教皇に働きかけて、新発見地に対するカトリック化を奨励し、保護する姿勢を示したのであった。

イエズス会が創設されたのは、1540年にローマ教皇パウルス3世の許可による。宗教改革に対するカトリック世界の対応として生まれた教団とみることもできる。イエズス会は精力的に布教地を求め、インドさらには中国、そして日本へと宣教師を派遣した。

教団としての誕生は、フランシスコ・ザビエルをはじめとする7人の同志がモンマルトルの丘の聖堂で誓願を立てた1534年8月15日。ザビエルが日本人ヤジロウの案内で薩摩半島の坊津に上陸したのは、1549年のことだった(薩摩半島編参照のこと)。前回ふれたように、その折りの同行者としてトルレスがいた。

ザビエルが日本を去った後、その立場を引き継いだトルレス(布教長)や、トルレスに感化を受けたアルメイダらの精力的な布教活動を通じて、1570年までに約3万人の改宗者を獲得し、信長時代には約10万人の信者が誕生したといわれる。

信者がいたのは、大きくは三か所だった。すなわち、「下」とよばれる九州の天草・島原地域、キリシタン大名大友氏が治める豊後、そして畿内だったが、その分布は圧倒的に九州に偏っていた。

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最終更新:5/25(土) 6:29
サライ.jp

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