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なぜイエズス会は長崎で多くの信者を獲得できたのか?

5/25(土) 6:02配信

サライ.jp

信者獲得のために献身的布教を行なったふたりの宣教師

当初は、本拠地を肥前松浦氏の平戸としたが、迫害を受けたため大村氏の横瀬浦へ、同所焼亡の後は福田を経て長崎へと拠点を移した。武器の援助をはじめ様々に協力しても、龍造寺氏を退けるほどの強力なキリシタン大名が育たなかったため、イエズス会は自力で教団を維持する方向を選んだ。

それが、長崎の要塞化だった。長崎をイエズス会の宣教師とキリシタン信者の自治都市とし、城壁や堀を普請し、大砲や鉄炮を巧みにあやつる兵士で固めたのである。これは、イエズス会の運営資金を守るための有効な方策でもあった。

ここで、高橋裕史氏の労作『イエズス会の世界戦略』(講談社、2006年)によりながら、その収入源について紹介したい。

ポルトガル国王は、植民地支配の正当化のために、イエズス会に対して海外渡航の便宜や経済的援助をおこなった。したがって、イエズス会の収入の第一は、ポルトガル国王からの給付金だった。次いでローマ教皇からの年金、篤志家からの喜捨、インド国内の不動産からの収入、公認・非公認の貿易(斡旋や仲介も含む)などがあげられる。

ただし、日本が極東にあったため行き来がままならず、これらはいずれも不定期かつ教団を維持するには少額といわざるをえなかった。イエズス会の世界教団化に伴う急速な拡大と国王給付金の遅配により、日本のイエズス会は常に資金不足に悩まされたという。虎の子の資金を守るためにも、長崎の要塞化と住民の武装化が進んでいったのである。

このような教団を政治的・軍事的に守ろうとする動きに対して、信者獲得のために地を這うような努力があったことを忘れてはならない。トルレスやアルメイダのような、日本の名もなき庶民の悩みと向き合った献身的な布教活動があったからだ。ここで、彼らの活動の一端をご紹介しよう。

トルレスの記事は、フロイス『日本史』に頻出する。市井に交わり、清貧に徹した人生だった。彼は、日本布教長という最高位の宣教師だった。しかし他の宣教師とは異なり、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、和服を着て布教に勤しんだ。

イエズス会は、役職による上下関係に厳格な教団であったが、日本の庶民と一緒に生きた。彼は、布教の傍ら、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、横瀬浦を拠点とするべく奔走し、そして長崎(1570年)の開港に向けて尽力した

アルメイダは、ポルトガルのリスボンで医師免許を取得した後に、インドのゴアから中国のマカオに向かい、中国と日本の貿易に従事し、約3000クルザード(ポルトガルの通貨の単位)といわれる巨万の富を築いた。1552年には日本を訪れ、トルレスに会うために平戸から山口に向かい、彼の献身的な布教活動に心打たれて入信し、その後の約30年に及ぶ人生を日本人への布教と医療にあてた。

『日本史』には、アルメイダの喜捨によって司祭館が維持されたことに関わって、「彼の手腕によって司祭、修道士、および司祭館(や修道院)を扶養してきた」と経済的支援について特筆されており、続けて豊後府内(大分市)において修道院に付属する病院をつくったことが詳述されている。

西洋医学にもとづく病院を日本ではじめて建設したアルメイダは、それに孤児院の機能ももたせている。当時、鉄炮の鉛玉が体内に残った場合、日本には外科がなかったため、その猛毒に対処できなかった。外科手術に長けていたアルメイダは、多くの人々の命を救ったのである。孤児院は、アルメイダが戦争孤児の増加や間引きの常態化を憂いて設けたという。

次に、関連個所を『日本史』から引用したい。まさに、採算を度外視した仁術の実例である。

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最終更新:5/25(土) 6:29
サライ.jp

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