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なぜイエズス会は長崎で多くの信者を獲得できたのか?

5/25(土) 6:02配信

サライ.jp

「彼は修道士でありながら、手ずから、あらゆる腫瘍、腐った瘻病、その他あらゆる病気を治療したが、(病人たちは)日本では珍しいことなので、その噂を聞いて各地から来訪した。(そして彼は)それら病人たちに霊的にも肉体的にも助けたのである。彼はそこに或る薬局を設け、シナから多くの材料や薬品を取り寄せ、どのような病人でもそこで(アルメイダ)師の恩情に与かることができた」

イエズス会は、長崎の要塞化、さらにはポルトガル人や町人の武装を推し進めた。生糸に代表される国際貿易には宣教師が必ず関与した。それによる利潤の追求は、教団の活動にとって死活問題だったからである。教団の維持と拡大にとって、資金の調達は必要不可欠であった。

デマルカシオンによって、ポルトガルの植民地とみなされた日本であったが、イエズス会は最終的に天下人との戦いの道を選択しなかった。天正15年のバテレン追放令には、秀吉との巧みな交渉を通じて、宣教師たちは日本を退去せずにすんだし、要塞都市長崎も維持された。

秀吉の天下統一によって、キリシタン大名蒲生氏郷が会津若松城主となることで、東北地域に信者が増大し、教会が建設された。伊達政宗もキリシタンに理解を示し、後に家臣支倉常長をローマに派遣している(牡鹿半島編参照のこと)。秀吉が国際貿易を重視する限り、介在するイエズス会と完全に手を切ることはできなかったのである。

文/藤田達生
昭和33年、愛媛県生まれ。三重大学教授。織豊期を中心に戦国時代から近世までを専門とする歴史学者。愛媛出版文化賞受賞。『天下統一』など著書多数。

※『サライ』本誌の好評連載「半島をゆく」を書籍化。
『半島をゆく 信長と戦国興亡編』
(安部 龍太郎/藤田 達生著、定価本体1,500円+税、小学館)

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最終更新:5/25(土) 6:29
サライ.jp

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