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【連載 名力士たちの『開眼』】関脇・金剛正裕 二所ノ関復活に目覚めた“勝負師”――[その1]

5/25(土) 10:37配信

ベースボール・マガジン社WEB

 自分を探している兄弟子の声がだんだん近付いてきた。しかし、ここで、ハイ、と返事して出ていけば、また2つ年下の嶋田(元天龍、最高位西前頭筆頭、昭和51年秋場所限りで廃業、現プロレスラー)とのいつ終わるともしれない三番稽古が待っている。

 果たしてオレは、この大相撲の世界で大成できるのか――。
 周りのライバルたちとはもちろん、自分の心の中に渦巻く不安との闘い。そんな苦しい手探りの中で、「よし、これだっ。こうやったら、オレはこの世界で食っていけるぞ」と確かな手応えを感じ取り、目の前が大きく開ける思いがする一瞬があるはずです。
 一体力士たちは、どうやって暗闇の中で、そのメシのタネを拾ったのか。これは、光を放った名力士たちの物語です。
※平成4~7年『VANVAN相撲界』連載「開眼!! 相撲における[天才]と[閃き]の研究」を一部編集。毎週金曜日に公開します。

大胆な発想で入門決定

「親方、今日はもう勘弁してよ」

 と、金剛(当時は大吉沢、44年夏、十両昇進時に金剛と改名したが、ここでは便宜上、金剛で統一する)は小さな声でつぶやくと、隠れていた便所の戸をしっかりと閉め直し、改めて息を殺した。

 ジッと目を閉じると、真っ白なユニフォームを着て、さっそうとマウンドに立っている自分の姿が浮かんでくる。入門する前、金剛は、北海道の深川市では、ちょいと知られた豪腕強打の野球少年だった。

 中学3年のとき、エース兼四番としてチームを率い、北空知地区で優勝して札幌の北海道大会にコマを進めたこともある。もっとも、このときはすっかり舞い上がって地に足が着かず、あっという間に負けてしまったが。

 しかし、卒業前、北海道の野球少年たちのあこがれの的だった北海高から、

「ウチに来ないか」

 とスカウトの手が伸びたところを見ると、腕は本物。当時、人気絶頂の巨人の長嶋や、王は、金剛の毎夜の夢に出てくる常連だった。

 おそらく金剛がおとなしくて、頭の回転も並の少年だったら、誘われるままスンナリと北海高に進み、野球のボールと格闘する青春時代を送ったに違いない。ところが、金剛は、すでにそのころから人生のソロバン勘定に異常に長けた少年だった。

「本当は、日体大に進学し、長兄と同じように体育の先生になってもいいなあ、と思ったんだ。でも、そのためには、高校、大学と、7年間もムダ飯を食わなくちゃいけない。そのうえ、首尾よく先生になれたって、初任給はしれているし。どうせスポーツを飯の種にするんだったら、中学を卒業するとすぐ稼げるような、もっとてっとり早くて、割のいいものはないか」

 と、この人生の最初の岐路でもそのソロバンをはじき、たまたま巡業に来ていた大相撲を見て、

「あっ、これだ」

 と一も二もなく飛び付いてしまったのだ。こんな大胆な発想でこの世界に飛び込んできた力士は、この金剛以外にいない。

 そして、入門して3カ月も経たないうちに、金剛は、この将来、力士になったらいくら稼げるか、というホフマン方式まで導入した自分の計算が間違っていなかったことを確信し、ほくそ笑んだ。初めて番付に四股名が載った昭和39(1964)年名古屋場所、中学時代、野球で鍛えた運動神経がものをいって、いきなり序ノ口で7戦全勝の優勝をしてしまったのだ。さらに、次の秋場所も初日から3連勝。なんと通算負け知らずの10連勝である。

「なあんだ。相撲なんて、ちょろいもんじゃないか。今までやったことがなかったのに、こんなに簡単に連勝できるんだから。オレの目論みどおりだぜ」

 と金剛は心の中でペロッと長い舌を出した。

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最終更新:5/25(土) 10:37
ベースボール・マガジン社WEB

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