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92年ダイナスティカップ。カズが覚醒した韓国撃破。日本に新たなストライカーが生まれたJリーグ開幕前夜【私が見た平成の名勝負(1)】

6/3(月) 10:13配信

フットボールチャンネル

国内外で数多の名勝負が繰り広げられた約30年間の平成時代。そこで、フットボールチャンネルは、各ライターの強く印象に残る名勝負をそれぞれ綴ってもらう企画を実施。第1回は平成4(1992)年8月に行われたダイナスティカップ1992決勝に挑んだ日本代表の激闘を振り返る。(文:藤江直人)

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●Jリーグ開幕前年

 待てど暮らせど、中国・北京発の一報が入って来ない。平成4(1992)年8月。当時勤務していたスポーツ紙の編集局で、オランダ人のハンス・オフト監督に率いられる日本代表が臨んでいた、ダイナスティカップ1992決勝の結果を待っているうちに日付は29日から30日に変わっていた。

 おりしもバルセロナ夏季五輪が閉幕した直後。取材団を送り込んでいた関係で会社全体として予算が逼迫していたため、北京で開催されたダイナスティカップへの担当記者派遣は見送られた。Jリーグが産声をあげる前年における、サッカーが置かれたステータスの低さを物語っている。

 同業他社も同じような状況に置かれていて、北京へ向かったメディアは5社前後だった。残る社はテレビやラジオを含めたメディアへ向けて、さまざまなジャンルのニュースを配信する共同通信や時事通信の記事が頼りになる。筆者が所属していたスポーツ紙は共同通信に加盟していた。

 共同通信に加盟しているメディアには、専用のホットラインが設置されている。まもなく配信されるニュースの概要がスピーカー越しにアナウンスされ、共同通信の特ダネやビッグニュースの場合は大音量のチャイムがまず鳴り響く。そのたびに編集局内に緊張感が走ったことを思い出す。

 しかし、韓国代表とのダイナスティカップ決勝に関しては、1-1のまま延長戦に入った直後から共同通信のアナウンスが途切れた。インターネットが生み出される前であり、さらにはテレビの中継もなかった。舞台となった北京工人体育場で何が起こっているのか、さっぱりわからない。

●オフトジャパンの成長

 結果をようやく把握できたとき、時計の針は午前1時半を回っていた。延長戦でも1点ずつ取り合った末にもつれ込んだPK戦を、4-2で制したのはオフトジャパン。戦後に行われた国際大会で日本代表が初優勝をもぎ取った記念すべき瞬間だったが、チャイムは鳴らなかったと記憶している。

 東アジア地域のレベルアップを目的として、ダイナスティカップが創設されたのは平成2年7月。北京で行われた第1回大会に臨んだ、横山謙三監督に率いられた日本代表は中国、韓国、北朝鮮の各代表に3連敗を喫して最下位に終わっている。1点も奪えない、文字通りの惨敗だった。

 しかし、2年の歳月をへた日本代表は史上初の外国人指揮官、オフト監督のもとで大きく変貌を遂げつつあった。初陣となった平成4年5月のキリンカップではアルゼンチン、ウェールズ両代表にともに0-1で敗れたものの、7月から行われたオランダ遠征でチームの輪郭が形を成してくる。

 かつてマツダ(現サンフレッチェ広島)を率いていた縁で、日本サッカー協会(JFA)から白羽の矢を立てられたオフト監督は、キャッチーな言葉を介して戦術を浸透させていった。アイコンタクト、スリーライン、トライアングルといった言葉は、シンプルゆえに説得力に満ちていた。

 オフトジャパンの成長の跡は8月中旬に2試合が組まれた、セリエAの名門ユベントスとの国際親善試合で国内のファンに披露される。ともにゴールを奪い合った末に引き分けたなかで、神戸ユニバーシアード記念陸上競技場で行われた第1戦は、日本代表のエースを覚醒させるきっかけになった。

●カズの覚醒

 一時はリードを2点に広げるゴールを61分に叩き込み、スタンドを熱狂させたのはFW三浦知良(ヴェルディ川崎)。ユベントスのセンターバックで、ブラジル代表としてワールドカップの舞台でも活躍したジュリオ・セザールを抜き去って決めたゴールを、カズは後にこう振り返っている。

「僕がブラジルでプレーしていたときから、セザールは雲の上の存在だった。自信になったよね」

 鳴り物入りでブラジルから帰国したのが平成2年の夏。ヴェルディの前身・読売クラブの一員として日本リーグを戦いながら、カズは評判倒れという批判を浴びてきた。2年間で決めたゴールは9。点取り屋を求めていた日本サッカー界のニーズを、とてもじゃないが満たさない数字だった。

「思うようにいかなかった部分もあった。あのころはフォワードに対する考え方というか、サッカーそのものが変わっていった。かつてのウイングに求められた仕事、たとえばセンタリングがいまではサイドバックに求められている。僕自身はウイングとしてアシストをマークするだけで満足しちゃって、ゴールに対してはそれほど貪欲じゃなかったからね」

 こんな言葉を残したのは、京都パープルサンガからヴィッセル神戸に移った平成13年だった。主流システムがブラジルの[4-3-3]から日本では[4-4-2]になり、ウイングが置かれなくなった状況を受けて、最前線で居場所を築くためのプレースタイル改革に平成4年ごろから取り組んだ。

●歴史を塗り替えた日本代表

 ユベントス戦で決めたゴールが、カズの進化を加速させた背景にはそうした事情もあった。迎えたダイナスティカップ。出場4ヵ国が総当たりのリーグ戦をまず戦い、上位2ヵ国が決勝に臨むレギュレーションのなかで、日本代表は8月22日の韓国代表との初戦をスコアレスドローで発進する。

 平成3年までの対戦のように、攻守で圧倒され続けた展開ではなかった。ボールを保持し、主導権をにじる時間帯が多かった内容に自信を得た日本代表は、中1日で行われた中国代表との第2戦を2-0で制する。ゴールを決めたのは福田正博と高木琢也だった。

 そして、再び中1日で行われた北朝鮮代表戦では、大量4ゴールを奪って快勝する。福田に続いて高木が2発を叩き込んだ後の74分に、国際Aマッチ通算10試合目にして待望の初ゴールを決めたのはカズだった。日本代表は堂々の1位通過を決めて、2位韓国との決勝戦へ進出した。

 後に見た決勝戦の映像では、いたるところに水たまりができるほどピッチ状態は最悪だった。キックオフ直前に集中豪雨に見舞われたためで、オフト監督は司令塔のラモス瑠偉を、ピッチが乾いてくる後半から切り札として投入することを決めた。

 そして、試合直前のミーティングで韓国代表のメンバー表を破り捨て、選手たちのモチベーションをアップさせた。曰く「過去は関係ない。新しい歴史を作れ」と。前半に先制されるも青写真通りに投入されたラモスのアシストから、FW中山雅史が83分に同点ゴールを決める。

 突入した延長戦の96分にもラモスのパスが起点となり、高木が大会得点王を確実にする勝ち越し点を押し込む。喜びすぎた隙を突かれ、直後に同点とされても試合の流れは譲らない。PK戦の最後にMF北澤豪(ヴェルディ)が豪快に蹴り込んで死闘に決着をつけ、歴史を塗り替えた。

●「何だか知らないうちにストライカーになっていった」

 一夜明けた成田空港。凱旋帰国する日本代表を祝福し、まだ見ぬワールドカップ出場への思いを共有しようと、到着ロビーを埋め尽くすほどのファンやサポーターが詰めかけた。出迎えたなかには感無量の表情を浮かべていた、Jリーグの川淵三郎初代チェアマンもいた。

 チェアマンだけでなく、JFA副会長と同技術委員長も兼任していた川淵氏は、翌1993年3月のキリンカップの対戦相手を明かしてくれた。ハンガリー、アメリカ両代表を叩いて、アメリカで開催される次回ワールドカップのアジア予選に挑む――こんな特ダネを書いたことを思い出す。

 大会MVPは得点王の高木ではなく、決勝を含めた全4試合、390分間に先発フル出場したカズ。高木や中山の周囲で衛星のようにプレーし、チャンスメークをしながらゴールを狙うプレースタイルが評価されたカズは、新時代の寵児として放つ存在感をますますまばゆいものにしていった。

 ダイナスティカップの直後に開幕したヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)では、11試合で10ゴールをあげて大会得点王を獲得。鹿島アントラーズとの準決勝。清水エスパルスとの決勝ではともに決勝ゴールを決めて、初代MVPにも選出された。

 そして、広島を舞台に開催されたアジアカップ1992でも、エースとして躍動する。イラン代表とのグループリーグ最終戦では日本代表を準決勝に導く決勝弾を決め、サウジアラビア代表との決勝戦では高木の決勝ゴールをアシスト。日本の初優勝に貢献して、またもや大会MVPを獲得した。

「あのころから、不思議とシュートが上手くなっていったんだよね。得点感覚で言えば高木やゴン(中山)、武田(修宏)の方があったと思うけど、何だか知らないうちにストライカーになっていったよね」

 プロ時代の夜明けに遂げた変化を笑顔で振り返ったカズだが、人知れず積み重ねていた、血のにじむような努力の結晶だったことは言うまでもない。スーパースターの誕生、そしてアジアの勢力図に日本が食い込んでいく序章となった意味でダイナスティカップ1992、特に宿敵・韓国への苦手意識を払拭させた決勝戦は忘れられない一戦として記録と記憶に刻まれている。

(取材・文:藤江直人)

【了】

最終更新:6/3(月) 10:13
フットボールチャンネル

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