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『大はしあたけの夕立』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第39回

6/6(木) 15:56配信

nippon.com

歌川広重「名所江戸百景」では第52景となる『大はしあたけの夕立(おおはし あたけのゆうだち)』。世界的に知られる名作は、幕府からのおとがめを逃れるための工夫から生まれた一枚といわれる。

名画の奥にうっすらと描かれた江戸幕府の軍港

名所江戸百景の中で、最も人気の高い絵の一つであろう。『亀戸梅屋舗』同様、ゴッホが模写したことでも知られている。土砂降りの雨を斜めの黒い線で表現し、着物の裾を捲り上げた尻端折(しりっぱしょり)で橋を渡る武士や町人たちの姿も面白く、顔が隠れていても仕草から表情が伝わってくる。リアルかつ躍動感たっぷりに描かれている点が、名作といわれるゆえんだろう。

「大はし」は隅田川に3番目に造られた橋で、現在の中央区日本橋浜町と江東区新大橋1丁目をつなぐ「新大橋」のことだが、当時は200メートルほど下流に架かっていた。タイトルにある「あたけ」は対岸の暗くなっている辺りで、幕府の御船蔵(おふなぐら)があった一帯をこう呼んでいたようだ。徳川3代将軍家光の時代、この御船蔵には「安宅丸(あたけまる)」という巨大な御座船(将軍が乗る軍船)が停泊していたのが由来である。この船は巨大過ぎて非実用的だったため、5代将軍・綱吉の時代には幕府によって解体されたという。とはいえ、この絵が描かれた幕末期にも御船蔵はあたけと呼ばれ、軍港としての機能を維持していた。そのため、詳細に描いて問題にならないように、広重は大雨で背景をぼかしたという説がある。

写真は、新大橋を見下ろすことのできるホテルから撮影したものだ。構想から足掛け3年にして、やっと「今日は確実に激しいゲリラ豪雨が降る」という天気予報が出た。これを信じ、慌てて部屋を予約して撮影に挑んだ。実際に写り込む雨は、黒ではなく白い線となる。雨の降る角度が、元絵と似た感じで撮れたカットを選んで作品とした。

●周辺情報

江戸時代、隅田川に架けられていた5本の橋

現在、隅田川には歩行者が渡れる橋が27本もあるが、江戸時代は5つしかなかった。

最初に架けられたのは今の千住大橋で、徳川家康が幕府を開く前の1594(文禄3)年建造である。江戸時代に入ってからも、幕府は防衛上の理由から、しばらくは他の場所に架橋することを認めなかった。1657(明暦3年)年に明暦の大火が起きた際、橋がないことで逃げ場を失い、多くの犠牲者が出てしまう。それを契機として、さらに東側への市街地拡大も狙って渡されたのが両国橋だ。元々は単に「大橋」という名前であった。隅田川の西側は武蔵国、東側が下総国だったため、2つの国をつないだことで次第に「両国橋」と呼ばれるようになったという。

綱吉治世の1694年1月(元禄6年12月)に3本目の橋が架けられ、大橋の次にできたために「新大橋」と名付けられた。この橋は、度重なる破損、流出などによって改修費用がかさみ、享保(1716-36)年間に幕府が廃止することを決めた。しかし、すでに本所・深川方面への幹線となっていたので、町人衆が存続を嘆願。橋の維持費用を町方が負担することを条件に許されたという。この嘆願がなければ、広重の名画は誕生していなかったかもしれない。

『大はしあたけの夕立』が描かれた時代には、両国橋の名が定着していたためか、新大橋の方を略して「大橋」と呼んでいたようだ。1858年の古地図『安政改正江戸大絵図』にも、「大橋」とだけ書かれている。

1698(元禄11)年に架橋された深川に続く永代橋が4本目、江戸時代最後の橋は1774(安永3)年の浅草・吾妻橋となる。千住大橋を除く、江戸時代に造られた4本は150メートル以上の木造橋であった。当時の架橋技術の高さには驚かされる。

本文・写真:浮世写真家 喜千也

最終更新:6/6(木) 15:56
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