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ビル・エヴァンスはなぜ人名を曲名にするのか~大名曲「ワルツ・フォー・デビイ」がスタンダード化しない理由

6/7(金) 15:00配信

サライ.jp

第9回ジャズ・スタンダード必聴名曲(5)「ワルツ・フォー・デビイ」

文/池上信次

これまでこの連載では、ポップスが「持ち歌で勝負」とすれば、「ジャズはまずアドリブありき」が基本であると説明してきましたが、「持ち歌」で勝負しているジャズマンももちろんいます。アドリブの技に加えて、自身だけの「持ち歌」があれば、さらに強く個性を印象付けられるわけですから。言い換えれば、楽曲を(も)重視する姿勢ということになりますが、モダン・ジャズの時代にそれを率先して示した代表格のひとりがピアニストのビル・エヴァンス(1929~80)です。今回はエヴァンスが作曲し、自身の看板的名曲である「ワルツ・フォー・デビイ」を紹介します。

タイトルになっている「デビイ」は、作曲当時2歳の姪の名前。ビルの兄ハリーの娘です。ビルはデビイを溺愛していたと伝えられています。その初演は、1957年に録音されたエヴァンスのファースト・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』(1)に収録されました。このアルバムには全部で11曲が収録され、うちオリジナルは4曲。そのなかの3曲は「リズム・チェンジ」と呼ばれるジャズの定番進行やブルースなど、明らかにアドリブに重きを置いた楽曲で、メロディを聴かせるオリジナル曲といえるのは「ワルツ・フォー・デビイ」(以下「デビイ」)だけ。エヴァンスはその後もスタンダードはつねに演奏していますので、「オリジナル曲で勝負」という姿勢をことさら打ち出しているわけではありません。しかし、これに限らずエヴァンスのオリジナル曲が強い印象を残している理由は、緻密に考えられたアレンジと、だからこそ一度限りにせず何度もくり返し演奏・録音しているところにあります。

ジャズにも名曲はある

この「デビイ」の初演は無伴奏ソロ・ピアノで演奏されました。わずか1分20秒のメロディだけの演奏で、アドリブはなし。アルバムの中でも目立っているものではありません。しかしエヴァンスはこの曲を1回の録音では終わらせませんでした。1961年録音の、その名も『ワルツ・フォー・デビイ』(2)では、「デビイ」の決定的な演奏を残します。革新的ベース奏者のスコット・ラファロとファースト・アルバムからの共演ドラマー、ポール・モチアンとのトリオによるこのライヴ録音では、エヴァンスは印象的な愛らしいメロディに、寄り添ったり絡んだりする(アドリブではない、曲の一部分としての)ベース・ラインを付加しました。メロディとこのアレンジは不可分といえるほど完成度の高い、じつに美しい「曲」に練り上げたのです。もうこのテーマ部分だけで、エヴァンスそしてこのトリオとしての個性は明確で、ポップスでいえば「持ち歌」が完成しています。(前回、「ジャズに名曲なし」と紹介しましたが、)ジャズにも名曲はあるのです。

しかしそこはジャズマン、エヴァンス。それだけではすませません。さらにアドリブでも勝負します。最初のテーマのあとブリッジ(つなぎパート)を挟んで、もう一度テーマを弾くのですが、それは4拍子なのです。そしてアドリブはそのまま続け、最後のテーマも4拍子のままです。テーマはメロディを聴かせる3拍子で、アドリブはノリのよい4拍子で、ということなのですね。さらりと聴くと、あまりにも自然に流れていくのでこの変化を気にとめる方は少ないかもしれませんが、この仕掛けはなかなか凝ったもの。私自身も「ワルツ・フォー・デビイ」なのに途中からは「ワルツ」じゃないぞ、と気がついたのは何度も聴いたあとでした。美しいメロディとアレンジに加えてトリッキーな仕掛けまで施し、さらにアドリブまで、どこを切ってもエヴァンスの個性が溢れ出ています。

その後もエヴァンスは何度もこの曲を録音しました。しかもほぼ全部がピアノ・トリオ編成で、基本のアレンジは1961年ヴァージョンを踏襲しています。その積み重ねから、「デビイ」はエヴァンスとは不可分の強いイメージが形作られました。ですから、ジャズでは有数の有名曲ではありますが、スタンダードといえるほど多くのジャズマンには取り上げられていません。とりわけピアノ・トリオ編成での演奏は、「カヴァー」にしかなり得ないというくらいの、エヴァンスの「持ち歌」なのです。

一方、その「呪縛」がないヴォーカリストたちは、その美しいメロディを愛し、多くの演奏を残しました。早い時期では1963年にモニカ・ゼタールンドが「モニカのワルツ」のタイトルで取り上げ(3)、トニー・ベネットが64年、リタ・ライスが65年に、サラ・ヴォーンは66年に歌っています。もっとも有名なのはモニカと、ベネットの75年再演ヴァージョンですが、いずれも伴奏はエヴァンスによるものです。ヴォーカルというまるで違うアプローチであっても、やはり「デビイ」とエヴァンスの結びつきは強固なものがあるのですね。

そういった訳で、エヴァンスの死後には取り上げるピアノ・トリオも増え、スタンダード的にも認識されましたが、その多くは「トリビュート」的な演奏であることからも、「デビイ」とエヴァンスの個性の結びつきはいまだ大きな存在感をもっていることがうかがえます。

ちなみに、エヴァンスのオリジナル曲には「デビイ」のほかにも人名がついたタイトルの曲が多数あります。「For Nenette」は妻のネネット、「Maxine」はネネットの連れ子、「Letter to Evan」は息子、「Laurie」は深い関係のガールフレンド、マネジャーの「One for Helen」といった人名そのもののタイトルのほか、「NYC's No Lark」と「Re: Person I Knew」はピアニストのソニー・クラーク(Sonny Clark)、プロデューサーのオリン・キープニューズ(Orrin Keepnews)それぞれのアナグラムだったりと、ほかにもまだまだいくつもあるのです。すべてインスト曲ですので、タイトルは曲のイメージに大きく影響してくるのですが、あえて人名、それもごく身近な人に限っているのはなぜでしょうか。それは、これらの楽曲は自分だけのもの、つまり自分の「持ち歌」であることを強調、主張したい気持ちから。もっというと、他の人には演奏させたくないという意識の表われだと思うのですが、どうでしょうか。

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最終更新:6/7(金) 15:00
サライ.jp

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